「私の名前は高城剛 住所不定、職業不明」を読了しました。
まず、自分を愛し、自分を大切にしなければ、他者への愛もなにもありません。他者のために生きるのでも、その責任を負うものでもなく、すべては自分です。そして、自分を愛するということは、自分に責任を持つ、という事です。決して、欲望にまみれるということではありません。いまの自分に責任を持たず、自分を偽ったり、他者のせいにしたりすることは、日々自分を傷つけているのと同じなのです。それは、自分を愛しているとは言えません。自分と向き合い、等身大の自分を、どれだけ愛せるか。実は、愛は他者とはあまり関係ない。他者は大切ですが、二次的な話です。これは、自己中心主義とは、まったく異なるものです。
誰になんと言われようが、好きに生きた方がいい、を実行すること。わがままとは違います。俯瞰的に自分と向き合ったあとで、俯瞰的に世界を見た上での自由と、ただ、好き放題に生きる自由とは、まったく異なるのです。同じように、やりたいときにやることと、やる必要があるときにできることは、根本的に違います。人に迷惑をかけない、礼節を守ることもポイントです。この自由の定義が難しいのは、日本人がフェラーリと自由とどっちが高いか、の議論をしてこなかったツケがありますね。人としても国としても急成長し、成熟してこなかったからでしょう。だから、いまも時代の価値を見失ってる人が多いのだと思います。
俯瞰的に自分を見ると、自然と、自分と連続するこの世界を俯瞰的に見ることになります。先程も書いたとおり、この世界の全ては完全調和によって成り立っています。したがって「自己」も完全調和によって成り立っています。
つまり、全ては一つで全ては「自己」ということになります。自分を愛するということは全体を愛するということになり、全体への愛は自己を愛するということになります。
愛するというのは「調和し受け入れる」ということになります。それを踏まえてこの文を読むと、好き放題にやりたいようにやる事と、やる必要があるときに出来る事は同じ自由であっても、そこに全体的な愛情が根本的にあるかないかの違いになってきます。
ここで伝えたい自由は「自在」と表現したほうが的確かもしれません。
ただ自由奔放にっ食う寝る遊ぶを楽しむのと、自己と世界を連続したものとして俯瞰して、自他を慈しみ、他と睦み合いながら食う寝る遊ぶを楽しむとではすべての物事の見方が全く違うと思います。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
自在
じざい仏教用語。心が煩悩の束縛から解放されて自由となり,何事でも思うがままになしうる能力をいう。仏,菩薩にはこの力がそなわっているとされる。
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出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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高城さんは前衛的なものの見方をしているように思いますが、太古の昔から揺るぎない真理を付いた話をしているように思います。
科学技術が発達して、森羅万象を科学技術で塗りつぶしてゆくと、スピリチュアルなものが浮き彫りになってきます。様々な哲学や思想がありますが、それぞれが求め行き着く真理は絶対的に一つです。
科学技術の発達は人類の様々な物事を変化させていくと思いますが、それに伴い浮き彫りになる真理こそが根本的に人類の在り方を変化させていくと思います。それは先ず働き方から変わってゆくのではないでしょうか。