真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

読書感想文>>「私の名前は高城剛 住所不定、職業不明」

 

「私の名前は高城剛 住所不定、職業不明」を読了しました。

 
高城剛氏の事は全然知らなかったんですが、ちきりん氏がブログで紹介していて大変面白そうだったので読んでみました。
 
 
 高城剛氏の事は沢尻エリカ氏の元夫という事しか知らなかったんですが、この本は非常に感銘を受けました。
 
 ちきりん氏のブログ記事も非常に共感を受けたんですが、自分なりに面白かった部分も抜粋してみたいと思います。
 
いま脳が騒がれているのは、基本的に機能についてです。これも本当かどうか、わかりません。例えばiPhoneですら、すごいのはiPhoneの機能ではなく、その先に広がるインターネットの情報や、iTunesのアプリです。いま的に言えばクラウドとかiPhoneの中ではない「どこか」のほうがスゴイわけで、だからiPhoneの機能が生かされるのです。人間の脳とiPhoneのどっちがすごいか考えたらわかると思いますが、脳の機能ではない、その先にある可能性のほうが、きっとすごいと言われるようになるでしょう。
 
 自分自身の現実は、自分自身の意識をその対象に向けることによって現実化されていきます。意識は思考のコントラストから生まれたり、目にしたり聞いたりしたことから生まれていくわけです。自分が五感で感じ取った物事や思考は脳の中で意識となり現実化されていきます。
 中村天風氏によるわかり易い說明だと、世の中の全ての推移変遷は一切の物事を完全化しようとする自然現象で、調和の復元作用であります。
 自分の中で完成された意識はその調和の復元作用によって現実化されていくわけです。
  これをiPhoneに例えると、人はインスピレーションや思考や五感を通して受けたものをiPhoneを通してインプットを求めたりアウトプットを求めたりするわけです。そういった部分がiPhoneと脳の働きは似ているかもしれません。
 脳もiPhoneもそれ自体は素晴らしい機能を持ったものですが、その働きが成すものの方が人を感動させると思います。
 最近はAIの進歩がめざましく、AIの普及によってどのように世界が変わるか想像し尽くせないほどに話題が広がっていますが、AIの研究が進むに連れて、人間の意識が顕在化されてゆく調和の復元作用にも目を向けられていくのではないかと思います。
 その中で自分が求めるものを現実化する仕組みが理解され、人それぞれが真に求めるものがはっきりしていき、多様な働き方や生き方が生まれてゆくのではないかと思います。
 
 
まず、自分を愛し、自分を大切にしなければ、他者への愛もなにもありません。他者のために生きるのでも、その責任を負うものでもなく、すべては自分です。そして、自分を愛するということは、自分に責任を持つ、という事です。決して、欲望にまみれるということではありません。いまの自分に責任を持たず、自分を偽ったり、他者のせいにしたりすることは、日々自分を傷つけているのと同じなのです。それは、自分を愛しているとは言えません。自分と向き合い、等身大の自分を、どれだけ愛せるか。実は、愛は他者とはあまり関係ない。他者は大切ですが、二次的な話です。これは、自己中心主義とは、まったく異なるものです。

 

 「およそ安楽の要訣は、すべからく人の一善を見て、その百非を忘れるに如くはなし」と孟子にあるように、他者の肯定的側面を見て、相対的ではなく全体的に愛するという事が人間関係を破壊的ではなく建設的に築いてゆくことが出来ます。
 先程も書いたとおり、世界は全て繋がっていて調和しあっています。したがって自己は全てで全ては自己であります。ですから自分を愛するということはそのまま全体を愛するという事になるわけです。
 これは解っていてもなかなか簡単にできる事ではありませんが、他者を愛する以前に自分を愛するというのが先ずは大事だと再確認しました。
 自暴自棄や自己嫌悪感にさいなまれていると、他者を慮る余裕が無いです。自分自身を許し受け入れる気持ちがあってこそ他者や状況を許し受け入れる事が出来ます。
 自分を客観的に見ること、俯瞰することが大事だと思いました。
 ちなみに息子を見ていると、息子が泣き言を言ったり、集中力を欠いてぼーっとしたり、喜怒哀楽の中に自分と似ている部分を見つける度に、自分を客観的に見ているような気がして面白いです。
 

 誰になんと言われようが、好きに生きた方がいい、を実行すること。わがままとは違います。俯瞰的に自分と向き合ったあとで、俯瞰的に世界を見た上での自由と、ただ、好き放題に生きる自由とは、まったく異なるのです。同じように、やりたいときにやることと、やる必要があるときにできることは、根本的に違います。人に迷惑をかけない、礼節を守ることもポイントです。この自由の定義が難しいのは、日本人がフェラーリと自由とどっちが高いか、の議論をしてこなかったツケがありますね。人としても国としても急成長し、成熟してこなかったからでしょう。だから、いまも時代の価値を見失ってる人が多いのだと思います。

 

 俯瞰的に自分を見ると、自然と、自分と連続するこの世界を俯瞰的に見ることになります。先程も書いたとおり、この世界の全ては完全調和によって成り立っています。したがって「自己」も完全調和によって成り立っています。

 つまり、全ては一つで全ては「自己」ということになります。自分を愛するということは全体を愛するということになり、全体への愛は自己を愛するということになります。

 愛するというのは「調和し受け入れる」ということになります。それを踏まえてこの文を読むと、好き放題にやりたいようにやる事と、やる必要があるときに出来る事は同じ自由であっても、そこに全体的な愛情が根本的にあるかないかの違いになってきます。

 ここで伝えたい自由は「自在」と表現したほうが的確かもしれません。

 ただ自由奔放にっ食う寝る遊ぶを楽しむのと、自己と世界を連続したものとして俯瞰して、自他を慈しみ、他と睦み合いながら食う寝る遊ぶを楽しむとではすべての物事の見方が全く違うと思います。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
自在
じざい

仏教用語。心が煩悩の束縛から解放されて自由となり,何事でも思うがままになしうる能力をいう。仏,菩薩にはこの力がそなわっているとされる。

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出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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 高城さんは前衛的なものの見方をしているように思いますが、太古の昔から揺るぎない真理を付いた話をしているように思います。

 科学技術が発達して、森羅万象を科学技術で塗りつぶしてゆくと、スピリチュアルなものが浮き彫りになってきます。様々な哲学や思想がありますが、それぞれが求め行き着く真理は絶対的に一つです。

 科学技術の発達は人類の様々な物事を変化させていくと思いますが、それに伴い浮き彫りになる真理こそが根本的に人類の在り方を変化させていくと思います。それは先ず働き方から変わってゆくのではないでしょうか。