真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

卯月 皐月

徒然なるままに

2018.4.21

 新潟南イオンへ「クレヨンしんちゃん」の映画を観に行ってきた。

 正確には息子の映画鑑賞に付き合ってきた。

 


 いつも混雑していて車の停め場所もないくらいだけど、天気の良い日だったのでとても空いていた。

 みんな天気がいいからレジャーに出掛けているんだろう。こんなに天気がいいのに外で遊びに行かずに消費行動を取っていることに罪悪感というかもったいない感じがして、なんだかムズムズする。

 

2018.5.10


 2011年3月11日は東日本大震災によって日本中が精神的なダメージを負った。

 日本中で災害の恐ろしさや、生活が脅かされるのではないか?という不安感が蔓延した。

 計画停電や物不足も、被災地のみならず国民全体の生活に緊張感を与えた。

 そこから生まれたネガティブな感情は大きかった。

 防災意識の高まりや、ライフラインの大切さ、慌てて唱え始めた「絆」。心に不安を抱えている人ほど「絆」とか「繋がり」とか「連携」なんて事を口走っている様に見えた。

 


 震災の後しばらくは、不安や恐れから起因する動きが多かった。

 


 震災があった頃、魂が形作られる2歳前後の子ども達は、この社会的な負の感情の渦をもろに受けている。今この子らは10歳前後。

 この子らを俯瞰的に見ていると、何か他の年の子らと違うものを感じるのは私だけだろうか?

 

 

 

2018.5.13

 人生は長いっていうけど、それは、確固たる目標を持って、その為に今自分が何をするべきか分かっていて、真っ直ぐに向き合っているからなんだろうな。

 


 人生は短いっていうけど、それは、あらゆる問題から逃げて、手短な楽な方へと流れて、何となく毎日を過ごしているからなんだろうな。

 


40歳は不惑の年っていうけど、あれ本当だわ。

 


 今まで努力する事や、覚悟する事から逃げていた。逃げる事が当たり前になっていて、全ての問題は他者にあると知らず知らずのうちに心の内で決め付けていた。

 向き合わなければならない、問題に。立ち向かわなければならない、辛くとも。

 その先に本当の光明があると分かっていればこそ。

 逃げるな!一歩前へ!

2018.5.15

 自分の中の「恐れ」を受け入れる、或いは手放す事が人類にとっての大きなテーマだと思う。それはその道によって表現が異なる。自分の中の恐れが消化出来ればこそ、心にも身体にも「自在」を得ることが出来るのだと思う。

 


 所謂引き寄せの法則とかは先ず持って恐れを手放す必要があって、恐れから生ずるイメージは現実化しない。

 


2018.5.16

 新潟市の小学生殺害事件、娘を持つ親としては他人事とは思えない。

 小学校の登下校の対策についても限界がある。今までの対策以上のものを求めれば、教員の本来の仕事を圧迫して、学校の本分が損なわれる恐れがある。

 とはいえ、保護者や地域住民の協力も限界がすぐに訪れる。

 保護者は殆どが仕事をしているし、パトロールをしている地域住民を見れば殆どが高齢者である。無理強いはできない。

 


 ある程度まで見守る事はできても、その先は自分で自分を守らねばならないだろう。

 


 アップルウオッチをもう少し小さくしたような物で、付けていても生活の邪魔にならないような大きさで、セルラー付きで、GPSや心拍数計がついていて、突然の心拍数の上昇にはアップルウォッチの様にアラームが鳴って、しかも親のスマホにも通知が来て、時計を外した時にもGPSデータと共に通知が来て、「助けてっ!」って言うと110番に繋がる。そんな物を娘に着けさせたな。

 やっぱりApple Watchになるのか?

 


2018.5.20

 たまに薪ストーブの薪作りで薪割り機を貸してもらっているじいちゃんがいて、なかなかその薪割り機、もう40年以上昔のイタリアの古い薪割り機で、エンジンはROBINでつまり富士重工なんだけど、なかなか運転にコツがあって、素直にエンジンは動いてくれなくて、じいちゃんの助言を得ながらなんとかコツを会得して、この薪割り機を使いこなせるのはじいちゃんの俺だけになった。

 じいちゃんが「俺が死んだらこの薪割り機、あんたにくれてやる」って言ってて、ここしばらくは薪割り機の力を借りずに斧一本で頑張ってたもんだから、じいちゃんの様子を伺う事はなかったのだけど、先月一人暮らしの自宅で一人でお亡くなりになってたって先週聞いた。

 親戚やご近所さんの案内で行ってみると、もう薪割り機は誰かの手に渡ったそうでもう無かった。 

 でもまぁ、捨てられずに誰かの役に立っていればいいんだけど、ちゃんと動かされているんだろうか?

 まだ薪が沢山残っていて、このまま放置されるのも火災の心配などあるので処分したいとの事だったので引き受けることにした。

 あと、小屋の中には薪作りに使っていた道具などが沢山残っていて、これらも「形見分け」という事で使えるものは引き取って欲しいとのことだったので、使えるものがあったらいただいて行こうと思う。

 


 薪は雑木を集めたもので、小さな枝まで積んであって、枝はあまり必要なかったのだけど、綺麗に片付けるのも一つの供養かなって思って頑張ることにする。

 他の薪は建物を壊して出てきた建材を切ったもので、あまり薪ストーブユーザーは欲しがらないみたいだけど、これも片付けるって意味で引き取ろうと思う。

 

 俺が死んだら何が残るんだろう?俺の持ち物、誰が何を引き取ってくれるんだろう?

 


合掌

 


2018.5.26

 「死ね」とか「ぶっ殺す」などよく口にする子どもがいて、うちの息子に「あんな言葉使うな」って言った。

 「死ね」とかいう言葉は、相手に対して「お前は価値が無い」「お前はこの世に存在している意味が無い」「お前はいなくていい」と言っているのと同じ事だ。さ

 簡単にそんな言葉を口にすると、自分にとって少しだけ邪魔なだけだったり、自分にとってちょっとだけ嫌な事があるとすぐに「死ね」とか「殺す」とか言葉を使う癖がつく。

 人を無価値と断ずるのは、刃物でいとも簡単に他人を刺し殺したり、銃で撃ち殺す事と同じだ。

 逆に人を無価値と断じなければ人を殺せない。

 人を殺す事に対する気持ちのハードルが低くなる事になる。

 人は自分の身の回りの全てと繋がっていて、自分が在るのは身の回りの人や物事が在るからこそで、他者を殺すという事は、自分を傷つける事と同じ。人に与えたダメージは様々な形で自分に返ってくる。

 

 そして自分の周りには何もなくなってしまうだろう。

 


2018.5.28

 自分の人生を盛り上げるには、自分の周りの人の人生を盛り上げる事も必要だと感じた1日でありました。