真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

調和と許容

 最近色んな場面で調和と許容について考えさせられる事があります。

 私が住む小さな街にも時と共に風景や住民やコミュニティにも変化が訪れます。
 自分が生活する場所の変化についてはそれに調和していかなければなりません。それは、転入して来た方達にとっても同じです。

 しかし調和はしても許容出来ない人が多いと思います。
 こちらとの調和を求めつつ、相手の許容は苦痛だという姿勢を垣間見ます。
 調和と言っても実際は「こっちの色に染まるべき」。赤に青を混ぜても良いけど、混ぜた色は限りなく赤。という状況を望んでいる様に思います。


 電車で小さな子が泣いたりするのを、「子どもが泣くのはしょうがない泣いて当たり前」と言ってても実際は迷惑そうにする人が多いですね。

 「おもてなし」をしているつもりで、無作法な客に対しては無作法を嘲笑したり、「こんな常識も知らないの?」という風に迷惑そうな態度をとる人がいます。

 その他の場面でもこうした調和を求めつつ実は調和していないケースをよく見聞きします。

 いずれのケースも調和する事は大事だけど、実際に自分が迷惑を被りたくないと言った考えがあります。

 ある程度お互いに妥協しあったり許し受け入れ合う事をしなければ、調和した環境は成り立ちません。
 でなければ、誰か一方が我慢をしたり諦めたりしなければなりません。

 地域のコミュニティの場合、郷に入らずんば郷に従えと言いますが、皆横並び一辺倒な価値観を持ち生活しているわけではありません。
 どんなに従来のコミュニティや習慣を堅持しようとしても、住民や街に変化があればそれは不可能です。受け入れなければならない部分はあるでしょう。
 しかし、新しく転入した側も従来の住民の意向を無理の無い程度に汲み取って差し上げるべきでしょう。
 互いに譲り合い受け入れあって調和した街が成り立ちます。

 電車の件についても同じで、子どもが泣いて困る事が予想されるなら、親は何かしらの工夫をして泣かない様に努力すべきだし、電車の中で子どもが泣いていても、周りの乗客はそれを許し受け入れるべきです。
 色んな乗客がいるのです。子どもが電車の中で泣いて周りに迷惑をかけるかもしれないと予想出来ても、電車を利用せざるを得ない親の気持ちも察してあげるべきでしょう。

 ちゃんとした旅館やお料理屋さんはお客様の無作法を咎めたり笑ったりしません。あくまでもお客様を理解し受け入れる事に努めます。
 また、お茶の席に招かれた時でも「作法を知りません」と亭主に言えば、「ご自由にどうぞ」と返して下さいます。

 日本には古来より「和」という文化があります。これは調和と同じ意味です 。調和とは「美」です。
 そして、調和とは相手を慮って受け入れる気持ちが欠かせません。それは「愛」です。
 そして、相手を思いやる気持ちは「誠」の心に由来します。
「誠」は真、「愛」は善、「和」は美。
 この真、善、美こそが日本古来の文化を形成する要素です。そして宇宙の原理です。

 どんな時でもこの「真、善、美」が含まれることが自然であり、物事の正しい姿です。

 この真、善、美は人に幸福をもたらすものです。基本的に人間は幸福に生きる様に出来ているのです。幸福であることが自然なのです。


 先ずは身の回りの全てを、相対的な愛ではなく、全的な愛で受け入れたい。