真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

日本は何故暑くて寒い家ばかりなのか?

  住宅って冷暖房効率が悪い。

 サッシがアルミだったりシングルガラスだったりで熱伝導が高く、窓際がとても寒かったり暑かったり。

 気密が低く、室内の熱が逃げやすかったりする。

 昔の住宅に比べると気密性も断熱性も数段上がった様だけど、それでもまだ冷暖房効率悪いと思う。

ハウジングメーカーによっては高気密高断熱を売りにしているところもあって、そのメーカーの建てた家に入ると、外気温との違いにビックリする。家中どこも快適で、しかも動いているエアコンは小屋裏に一台だけで家全体をカバーしてたりしてまたビックリした。

 坪単価聞いてまたビックリしたけどね。

 日本は四季がはっきりしていて、夏は蒸し暑く冬は凍るほど寒いのにもかかわらず、日本の住宅はなんでこんなにも機能が低いんだろか?

 先ず第一に考えられるのは、日本の建築様式に対するこだわりが脈々と引き継がれている点であると思う。

 確かに畳敷きの茶の間から雪見障子を通して縁側の先の庭の雪景色を眺めるっていう建築体験は素晴らしい。

 日本建築特有の内と外の曖昧さ加減は絶妙で、美しい建築空間を作ってる。

 第二にそうした日本的美意識が大工さんや年寄りから「家とはそういうもんだ」と言って、変な「型」化されて、そういう意識が常識として日本人にこびりついているところも原因と思う。

 自分が長年過ごした家が最も居心地が良いと思うのは当たり前で、たがしかし、思考停止してそれで良しとして、新たに建てられる住宅にも自分だけの常識を当てはめようとする試みが、新しいライフスタイルの創造やそれに伴う住宅建築の進化の足を引っ張っている。
 親が、子が建てた家にケチ付けるのはこの心理だ。

 それにしても、美しくも無く、快適でもない、いかにも「型」化した住宅建築が多い事。
 バブル期に一戸建てを所有する事がステイタスみたいになって、バンバン建てられて、今は駅の近くの良い場所に当時の住宅街が、もう古くなってびっしり並んで幅を利かせてる。
 そういう家の住民は大体高齢者になりつつあるんだよね。そういう人達こそ、そういった住宅で暑さ寒さに耐えて暮らすのはとても大変だと思うよ。
 愛着とか意地とか捨てて快適なマンションなどに引っ越した方が健康寿命が延びると思うな。


 それにしても日本家屋の中にどんな冷暖房機器を置いてもなかなか似合わない。せいぜい火鉢とか、でもはっきり言って暖房にならない。コタツも合うけど部屋暖まらない。

 扇風機とか冷風機とか似合わない。
 ファンヒーターとかエアコンとか反射式ストーブやオイルヒーターとか、思いつく冷暖房機器はどれもこれも似合わない。

 何で日本は家電製品が発達しているのにもかかわらず、そういう所は怠けてきたんだろう?
 谷崎潤一郎先生の「陰翳礼讃」をまた開きたくなったなぁ。

 建築が人間に与えるものって、建築空間としての美しさ、快適さ、安心感や安全、色々あるけど、何かを立てれば何かをあきらめなければならない。
 ずっと前に安藤忠雄先生の講演を聞きに行った時に、「美しさを求める代わりに快適さを犠牲にしたりする。その反対もある。」とおっしゃっていた。

 安藤忠雄先生は美しい建築をたくさん生み出しているけど、実はご本人の御宅は建売マンションなんだよね。

 先にも言った通り、今まで快適な住宅建築が生まれてこなかったのは、先に挙げた理由の根底に、やはり日本人の美意識が強いのかな?って思う。そしてそれは普遍的価値観でもあるんだよね。
 

「敷島の、大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」
みたいなね。

美とその再現不可能性の中に見出す儚さと、それに対する憧れから共感しようとする余りに湧き立つ「自己犠牲」「献身」さとかが、「我慢の美徳」「謙譲の美徳」になったりするのかもね。

 そういう確固たるものが、住宅の快適さを犠牲にしたのかな?そして美意識が「型」化される事が問題だ。

 でも、我慢する事が美徳とか?昨今の猛暑や寒波はそんな事言ってる場合じゃないよね。エアコン入れるの躊躇して死者が出ちゃうんだから。


 現代の建築技術は進歩しているから、日本人の美意識を損なわずに、快適に暮らせる住宅建築は十分に可能だと思うんだよね。坪単価が高くなると思うけどね。
 あと建築に何を求めるか?というバランスだと思うけどね。
 

 世の中には素晴らしい住宅建築が沢山ある。そしてそういう建築それぞれには、住民の固有の価値観が表れている。

 自分のライフスタイルを考える事で、"実は要らないもの"が沢山出てきたり、家具の配置が変わったり、家電製品が増えたり減ったり、間違いなく暮らしが快適になるはず。

 みんながこうしてるからとか、テレビでこう言ってるからとかじゃなくて、「自分はこんな暮らしがしたいんだ」「自分のライフスタイルってこうだっ!」って言える事が、素晴らしい建築と心豊かな暮らしにつながっていくんじゃないかと思う。

 自分の暮らしを再点検しよう!

STAR WARS

"star warsフォースの覚醒"を観てきました。

ユナイテッドシネマで4DX3Dを観ました。
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4Dは初めてなんだけど、とても臨場感があって面白かった。
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 シートはステップがあってシートそのものが床から浮いてる感じ。
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手元の飲み物ホルダーにWater ON.OFFスイッチがあって、雨とか水しぶきの有る無しが選択できる。
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 シートの頭付近にも風の吹き出し口があり、ビームライフルが頭をかすめると風が頬をシュッとかすめたり、ファルコン号が水しぶきをあげると水しぶきが前から飛んできたりする。

 シートはシーンに合わせてかなり動く。空中での戦闘シーンはスンゴイ動く。シートの背もたれの中にも仕掛けがあって、背中をど突いてくる。
 風が吹いてきたり、雪山のシーンで雪が降ってきたのはたまげた!

 結構アトラクションに近い感じだけど、没入感が高くとても面白かった!

 ところでstar warsのこのフォースの考え方やジェダイの騎士は、日本古来の剣術にとてもよく似てると思うんだよね。

 フォースは日本語で「理力」というんだっけ?
剣術に例えると「自在」だと思う。
 「自在」とは自由とは違って、自分の思うように在る事ができるという…まぁちょっと詳しく説明すると話から脱線しちゃうので割愛しますが。
 フォースにすると相手の動きを封じたり、飛ばしたり、打ちまくってくるレーザービームをライトセーバーで「ホイホイ」と退けたりするのも「自在」であればこそ出来る事なんだよね。剣術はそんなSFちっくなことは出来ないけど、「自在」であればどんな場面も自分の思うがままにする事ができる。
 「自在」である事の要素は既に誰の中にでも備わっていて、誰もがその力を知らず知らずに使っているんだよね。

 ただし、意図的に「自在」なる力(フォース)を使いこなせるか使えないかが、達人と呼ばれる人(ジェダイ)と普通の人との違いね。

 剣術もジェダイも剣(ライトセーバー)のテクニックを磨くことはもちろん大事なんだけど、あらゆる状況を仁愛を以って受け止め(恐れを手放す)、他者との調和を醸し出す事が大事なんだ。
 こうして剣術を学ぶことにより「自在」得ることが出来ます。

 だから剣術、もっと大きく言えば兵法に勝ち負けは無い。

 剣術を学ぶことによって得られた「自在」は個人対個人だけでなく、社会や国の執権が使う事で平和が訪れる。これこそが活人剣であり治国の剣だ。

 こんな感じでstar warsを観てるのでジェダイの騎士が兵法者に見えるんだよね。

香取神道流の組太刀をstar wars風にするとこんな感じ。かっこいいでしょ。

 俺も明日から剣術の師匠の事を「マスター」と呼ぼうかな?
 
フォースと共にあらん事を!


 

2016年の抱負

あけましておめでとうございます。

 昨年は絶対にあり得ないと思っていた人事異動があって、4月から職場が変わりました。

 しかも以前に居た職場に7年振りに戻る形になり既視感ありありで新鮮味がなく、正直ため息ばかり吐いていました。
 しかし、先輩から沢山仕事を教えてもらったり、職場の雰囲気がとても良く、意外と楽しくやっています。

 昨年の念頭に書いたブログにはこんな事が書いてありました。

 "今年の抱負は

・今まで積み重ねた自分の価値観を疑う事。
・好きなことを我慢しない。興味のある物にキチンと関心を示す。
・変化を恐れない

です。

2015年は人生のバージョンアップが始まる年になるかと思います。超楽しみ!"


 今年は特に自分自身の「価値観」についてよく自分自身に向き合って考えたいと思います。

 誰かの言った事など迎合するあまりに、それが自分自身の価値観と思い込んだりしない様に。自分自身の価値観を明確にして、それを大切にしていきたいと思います。

 そして余計な物事を削ぎ落とし、自分の信念を単純明瞭にして、そこへ力を注いでいきます。

 今日は妻の実家から新潟への帰りの途中に、今年の決意表明として大分県宇佐神宮へ初詣に行ってきました。

 細木数子先生の言う"大殺界"2年目に突入するわけですが、人生の良きストレッチとシェイプアップの年にしたいです。

2016年、超楽しみ!
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農林高校の生徒達


 私が住んでいる街に県立の農業高校があります。

 生徒は授業の一環として学校で作った味噌、ジャム、米、鉢物の花、クッキーもあったかな?野菜、果物などを、一輪車に載せて近所を売り歩いています。

 市内の小中学校にも担当の先生と訪れたりして、卒業生が来ると職員は皆喜んで買ってくれるみたいです。

 どこの家に声をかけるか?とか、どこの地域を歩いてみるとかは基本的に生徒が考えているみたいです。

 商品は質が良くて、いつも売りに来るのを待っているような人もいます。
 秋に行われる学校の学園祭的な行事では、肉やその他の農産物などを求めて列が出来るほど人気があります。

 商店街のイベントでも、農林高校として出店していました。生徒らは元気に声を出して活気がありました。

 生産から販売まで、どの程度生徒が携わっているかはわかりませんが、少なくとも、自分達で作った農産物を自ら売って歩いて、お客様の声を聞くというのは大変有意義な勉強だと思います。

 生徒達は買ってくれたお客様の声をどれだけ聞き取って、それを次の商品の生産に生かしているのかわかりませんが、それをきちんとやったらもっと勉強になるのではないでしょうか?

 先ずは目標を掲げることが大事だと思います。それが売り上げか、売り上げよりも商品の質を上げる事か、いろんな目標設定があるかと思いますが、いずれにせよ、「いつもと同じ様に生産して、商品化して、いつもと同じ様に売りに歩く」では成長しないと思うのです。

 生徒は3年間しか機会がありませんが、先輩達が残してくれた方法や考えなどをさらに磨き上げていくことができます。

 目標を設定する→生産方法を学ぶ→実践する→売る→評価する→より良い生産方法を学ぶ→実践する→新しい売り方を試す→評価する→…

 こうしたサイクルをしっかりと行っていれば、社会では即戦力になるのではないでしょうか?机上で経営や経済を学んだ大学生よりも、3年間自分で商品を作って売って歩いた高校生の方が採用されやすいと思います。

 またはすぐにでも何人かで力を合わせれば起業出来そうな気もします。

 農作物の貿易が自由化され、農業も何を作るか?誰に?どこに売るか?を農業に従事する一人一人が考えなければなりません。

 農業高校の生徒らが勉強していることはこれから必要不可欠な事ばかりです。ただ作るだけではダメだし、ただあるものを売るだけでは売れません。農業はどのポジションにいても、作って売るという全ての行程を考えなければなりません。従って農業高校での学びはこれからの農業を担うにあたり、とても有意義であると思うのです。

 これからの日本の農業を担っていくのは、農業高校に通っている生徒らはが中心になるでしょう。農業高校の生徒らの未来と、これからの農業に期待します。
  

中学校武道授業 柳生新陰流剣術と穴澤流なぎなた


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 今年も中学校武道授業が終わりました。

 我が加茂市では、中学校の武道授業必修化にともない、剣道、柔道、合気道、空手、柳生新陰流兵法、穴澤流なぎなた を生徒に選択してもらって10月に集中して授業を行っています。

 私は師匠(加茂市長)の助教として柳生新陰流と穴澤流なぎなたをお教えしています。

 中学生は毎年5月に行われる演武会を観て、やりたい武道授業を選択します。柳生新陰流と穴澤流は再選択率が高く、1年生の時から3年間選択する生徒が多いです。そして理由はわかりませんが、女子の比率がとても高いです。3年生は30人中24人が女子でした。

 再選択は大変ありがたい事です。「またやりたい」と思って来てくれる生徒は、やはり能動的です。教える方としても、やっていてとても楽しいです。

 そして、全学年を通して圧倒的に女子の理解度が高く習熟度が高いです。
 何よりも楽しげに授業に取り組んでいる所がとても良いと思いました。

 生徒達に教えると同時に、大いに自分自身の稽古にもなります。
 この武道授業の期間中に生徒達に教えることは、初歩にして最も大事な部分です。

 自分自身も、授業をやりながら、大事な事は多くの刀法を覚えることよりも、基本の精度を高めることだと再確認させられる毎日でした。

 武道授業中に「かんぽ剣道大会」にて開会式で柳生新陰流の組太刀を披露する機会があって、県内の大勢の剣道の先生方から、鍛えた鋭い目で視線のシャワーを浴びるのですが、後に聞いた所、大変多くのお褒めの言葉をいただいたようです。
 
 武道授業の賜であります。

 この武道授業には数ヶ月にわたって準備してくださった学校教育課と、準備に携わった多くの方々、授業を円滑に進める為に、日々の準備と点検を弛まぬ緊張感をもって行ってくださった市役所職員諸侯。
 私が武道授業の為に職場専念義務を免除されている間、助けてくださった先輩や職場の皆さん。
 大変多くの方々の助けを得て円滑に行うことができました。

 生徒達は楽しく有意義な武道授業を受けることができたと確信しています。

 武芸とは相手と戦い争うものではなく、仁愛を以て他者との調和を醸し出すものであることを、一片でも解ってもらえると嬉しいです。


 大変ありがとうございました。

感謝!
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引き寄せの法則の本質


 10年くらい前から「引き寄せの法則」というワードをよく目にするようになった。

 「引き寄せの法則」は自分が考えていること、イメージしていることが現実化するという法則だって言うけど、それは本を売るためのキャッチコピーで、本質はちょっと違うんだよね。

 結果的には自分がイメージしたことが引き寄せられるわけだけども、それ以前に大事なのは、自分の心の態度なんだよね。

 よく言われることで、願い事は「〜できますように」みたいな願い事はダメで、「〜出来てありがとうございます」って感謝しなきゃダメだって言うけど、これは正しい。

 引き寄せの法則的に言えば、例えば「お金が沢山欲しい」って願ってばかりいると、「お金が欲しい」という状態が引き寄せられるわけ。だからお金がすでにある状況をイメージして「お金が沢山あってありがたい」とイメージするべきなんだよね。

 でも、ここで大事なのは、状況を引寄せるのではなくて自分の気持ちを引寄せることに焦点を合わせなきゃならないわけ。

 お金があるとか目標を成し遂げたという状況よりも、どういう気持ちを得たいか?という事に焦点を当て合わせるべきなんだ。

 まずはそこ。

 その感情を得るがためにどういう状況が自分に起きて欲しいか?をその次に状態をイメージするわけ。

 本質的に言えば、例えばお金が沢山あったって何にも喜びを感じない人はいるし、わずかなお金でも大変な喜びを得る人もいるわけです。

 だから得るべきは物や状態ではなくて、感情、気持ち。

 したがって引寄せるべきはお金とか名誉とか状態ではなくて、喜びや幸福感や満足感などのポジティブな感情なんだよね。


 じゃあ、どうやって引寄せるかというと、実はそこが一番大事なところで、「引き寄せの法則」本はそのもっとも大事な部分をないがしろにしつつあると感じるんだけど。
 物事を引寄せる自分の心の態度が最も大事なんだよね。
 物事を生み出すというのは、その要素にポジティブな調和と愛が欠かせない。
 創造のエネルギーはポジティブなエネルギーなんだよね。悲観的、ネガティヴなところからは何も生まれないんだよ。
 怒ったり悲しんだり自虐的になったりしているところからは愛に満ちたポジティブな感情や状況は引き寄せられないし生まれないんだよね。
 
で、どういう風にポジティブな感情を得るかというと、今その一瞬一瞬をポジティブな思考で埋めることが何よりも大事なんだよね。感謝、思いやり、愛情に満ちたポジティブな思考を今の一瞬に埋めるわけ。

 でも、人間いろいろあるわけで、そんなに都合よくポジティブなことばかり考えてもいられないわけよ。

 人間の心にネガティヴな影を落とすのは、何よりも人間関係。人間の悩みは突き詰めるところ必ず人間関係に行き着くわけです。

 そこで中村天風先生が言うのは
 「人の一善を見てその百非を忘れるに如くはなし」

というわけ。これはいい言葉で、その人の一つでもいいところを見て、その他の百の悪い部分を忘れちゃいなよって事。
 
 自分がその物事や人の言動に対してどう思うかはその人次第で、自分自身に責任があるわけです。誰かがやったやらない、言った言わないに対して、自分がどう思うかは自分の責任。

 ポジティブであるかネガティヴであるかは自分次第なわけですよ。

 だから、その一瞬一瞬を良い気分で過ごそうという態度が、更に良い気分を引き寄せちゃうわけです。

 でもね、でもね、人はそんなに平穏な毎日を送っておるわけではないわけですわ。
 腹立たしい事もあるし、いらつく事もあるわけで、嫌な事もあるわけです。そんな時は自分の心は荒波ですよ。
 そんな時にいきなり平和でハッピーで愛で満ち溢れた気持ちになんて一気になれるわけありませんがな!
 だから、人類は禅とか瞑想とかヨガとかを考案したわけです。
 それはどういう効用があるかというと、
 感情をメーターに例えて、イライラ悲しみ怒りなどのネガティヴ感情をマイナスと例え、感謝喜び幸福感をプラスに例えれば、その間には必ず0があるわけです。
 禅や瞑想やヨガは一先ず自分の心を0にリセットする手段なんですよね。

 この0の状態は「空」とか「無」とか言われるわけです。
 宮本武蔵五輪書の「空の巻」で真空妙有と言ってるけど、こういう事です。空なる状態から妙なる有(智、理、道)が生まれるわけです。
 全てはここらか始まるわけですね。

 だからまずは心をリセットする事、そして気持ちをポジティブな方向に持っていく事が日々、常々大事なわけです。
 そうすると創造のエネルギーが自分に満ちてくるのです。
 その創造のエネルギーの仕組みは宇宙が誕生した時と全く同じ働きで、宇宙が膨張し続けるエネルギーもたまたそのポジティブな創造のエネルギーが働いているわけです。

 毎日、一瞬一瞬をポジティブに過ごして自分が得たいと思う感情をイメージする事。

 そうする事により、宇宙から創造のエネルギー(般若心経は般若(パーニャ)というし、キリスト教は神という。宗教によって表現は違うが、本質は同じ)を得て、なりたい状況になれるわけです。

 これが「引き寄せの法則」の本質です。

 最も大事なのは何度も言うように、常にポジティブに在る事です。得たい感情をイメージし、なりたい状態をイメージするのはその次です。

 妊活を頑張っている人に試して欲しい事は、赤ちゃんを授かる事は大変偉大な創造です。
 だから母体となる人は穏やかで温和でポジティブ状態でなければ命を授かることはできません。心の中に「どうせ自分は…」などという自虐的な感情や、あいつムカつくみたいな否定的な感情やストレスを溜め込んではいけません。

 美しいものに触れて心を癒したり、面白いコントDVDなど見て大笑いしたりして、できるだけ大らかでポジティブな感情を維持するべきです。
 そうすると必ずや子宝に恵まれるでしょう。

 創造の力を得て自らの思うがままに成る事を「自在」と言います。
兵法を学ぶ目的は「自在を得る事」と言われています。
 古来より人類はこの所謂「引き寄せの法則」を得る為の考察を繰り返してきました。
 宗教はもちろんの事、古流の兵法も自由自在に生きる術を唱えているのです。

・常にポジティブである事
・得たい感情をイメージする事。
・その為の自分の状況をイメージする事。

その為に様々なツールを使う事も効果的です。
音楽を聴いたり、温泉に入ったり、ドライブを楽しんだり、趣味に没頭したりする事は物事を引寄せる状態を維持するに有効でしょう。

 Have a nice week end!!

地方の食文化

 東京でとてもお洒落でアットホームな料理教室を開いている友人が、実家へ帰省する機会が多くなった為、実家のあるこちらの小さな街で料理教室を開きたいとの事で、色々と案を練っている所です。

 友人は食材の種類や値段を調べる為にスーパーへ出かけたり、近辺で外食をしたり、料理教室をリサーチしたりして、料理教室を開催するに必要な情報と市場のリサーチをしています。

 地方の田舎の食文化についての感想を聞く上で、気付かされる事が沢山ありました。


・作らない

 これはどこに行っても同じ事が言えるのかもしれませんが、料理を作らなくなっているようです。
 スーパーにはお弁当やお惣菜が年々充実しています。そしてそのお弁当やお惣菜コーナーは常に人気です。
 コンビニのお惣菜の種類も多くなったし、以前よりも味が良くなっているようです。
 しかし、それにしても美味しいとは言い難い…
 ただし、美味しい食材はどこにでも豊富にある。


・美味しいと言えるお店が少ない

 これは周りの何人もの人が言います。
 堀江貴文氏も高城剛氏も、世界から見れば東京の食文化は世界一だと言います。ですが、堀江貴文氏曰く、地方に行くと美味しいお店が少ないと言います。
 ロケーションが良かったり、雰囲気が独特であったり、非日常的な空間を演出しているならば、そこに付加価値があるので味には譲歩の余地がある訳ですが、なんの変哲もないお店でありながら、自宅で自分で作った方が美味いと言える様なものを出すお店があったりします。

 昔からの人気店で「美味しい」と評判のお店も、改めて俯瞰的になって食べてみると、全然美味しいとはいえなかったり…

 不味いとは言わないけれど、美味しい物に出会うチャンスがとても少ないと感じます。
 

・ホームパーティをやらない

 田舎では自宅で冠婚葬祭ができちゃうくらいの大広間を有する家が沢山あります。しかも広い庭があったりします。
 しかし、人が集まって宴会をやる機会というのは、冠婚葬祭かお盆か正月に親戚が集まる位で、それ以外で友人が集まって宴会をやったりする事はあまり少ない様です。

 みんなで集まって宴会をやるというのは楽しいという事はわかっているはずなのに、人を自宅に呼ぶという事に抵抗があるのではないでしょうか?ただし、人の家に行くという事に関しては抵抗がない様に思います。


 まとめると

・作らない
・美味しいお店がない
・みんなで一緒に食事を作ったり食べたりしてパーティー、宴会をやらない

  最近西日本各地に行く機会がありました。道沿いの飲食店の看板の風景は、どこへ行っても同じ風景です。おなじみのフランチャイズ店やチェーン店の看板で埋め尽くされているのです。
 反感を恐れずに言えば、私も含めてですが、地方にはとても豊富な食材がありながら、地方の人々の食文化は堕落し、口は貧しくなっている様に思います。
 料理をせず、美味しさへの欲求は薄れ、食事は簡素化され、お手軽でシステム化した食事を利用する事が多くなりましました。
 何が美味しくて何が美味しくないのかさえも、自らの味覚よりも世間のレビューが定義付けしている様な気がします。

 地方で料理教室をやるというのは、地方の現在の食文化の流れに抗う様な事です。

・美味しい料理は沢山ある!
・誰もが美味しい料理を作る事ができる!
・料理を作るって楽しい!
・みんなで作って食べると美味しいし楽しい!

 地方の食文化の流れを全体的に変える事は無理があるけど、こうした食事にまつわる新しい提案は、とても意義のある事です。
 そしてそれは地方の食文化のイノベーションと言ってもいいと思います。
 友人のこうした想いをなんとか形にして、少しでも多くの人に体験し満足感と幸福感を感じてほしいと思います。


 ごく一部の文化的感度の高い人は、自分で作り振舞ったりする事に、楽しさと貢献感と幸福感を感じていて、実際に自宅で美味しい物を作ったり、ホームパーティーを楽しんだりしている様です。しかし本当にごく僅かの人達です。

 料理教室を開催しても友人の想いは伝わらないかもしれない。
 楽しく料理を習っている自分をSNSにシェアして満足して終わりかもしれない。
 みんなで集まってワイワイと料理をして美味しくいただいて満足し、習った料理のスキルを持ち帰り、活かそうとする事が今後ないかもしれない。

 でも、それで先ずは十分だと思うのです。

 楽さは少しずつでも広がって、一人ずつに広がって、やがてもっと踏み込んだ料理の楽さを体験してもらうのがいいかもしれない。

 料理は創造性のある日常であり趣味であり娯楽でもあります。
 そして誰かの為を想って行われる思いやりの貢献であります。

 この人間の生活から切っても切れない食事というものを、もっと楽しく幸福なものにしようとするこの友人の志を、心から応援したいと思います。