真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

徒然なるままに 「水無月」

2018.6.5

 音楽って楽しいものの筈なのに、ピアノ教室に入ると、検定を受けさせられたり、発表会にエントリーさせられたりして、その度に目標設定されて一生懸命に練習しなければならなくなる。

 そうすると楽しいはずの音楽が一気に面白くもないただの苦痛な練習時間になってしまうんだよな。スキーは楽しく滑って上手くなっていくのにな。もっと「弾けた」っていう感動と楽しさを噛み締めて出来たらいいのに…息子が煩悶しながらピアノの練習をする姿を見て思う。

 


2018.6.8

 嫉妬や妬みを回避する為に、ホールインワンを出したら一緒に居る人達にご祝儀を配るという話を題材にして、息子にお風呂の道徳授業をしてやった。

 2018.6.11

 公園の隣の住民が、公園の草が伸びて蚊が増えて困るので、草刈りをして欲しいと区長の所へ申し立てがあり、そこから育成会会長の俺の所へ、草刈りのお願いが来た。公園は子どもが使う所だからと言う理由と、公園は年に3回程育成会が会員の皆さんで草刈りを行なっているからと言う理由だ。

 先ず、公園は育成会でも区の持ち物でもない。管理は育成会の仕事ではない。所管は市の都市計画課なんだし、お金を貰って公園を管理している人が居るわけだから、都市計画課に相談するのが筋だと思うのだが、面倒なのかボランティアと言う言葉を使ってお願いされたんだけど、ボランティアとは自発的、能動的に行われるものであって、他者から無理矢理お願いされてやるものではない。

 その草刈りの為に俺は時間とガソリンと労力を差し出さなければならない。

 何でもそうだけど、いとも簡単に人に只働きをお願いをするのはやめて欲しいもんだ。

 そう言う手法の積み重ねが、自治活動の膠着や人手不足や地域の衰退を招くって事を理解しなくてはならない。何度も言うが、そこに価値があると思うからこそ、見返りを期待せずに力を出せるんだ。

 


2018.6.13

 飲み会は価値観の違う人々が迎合するための行事であり、酒は価値観の違う人同士を無理矢理迎合させてくっつける接着剤的な役割を果たす。

 


 だこら「地域の」と付くコミュニティでは酒の場は絶対必要だし、酒の場があるからこそ、地域で繋がるコミュニティはうまく回るんじゃないだろうか?

「 同じ地域に住んでいるから」と言う理由だけで集まった人々が同じ価値観を持って協力し合うなんて、普通なかなかうまくいかないでしょう。

 


2018.6.16

 子どもの頃から薄々気づいていて、今は確信できるんだけど、自分は数学や算数が好きで、物事をシンプルにしてゆく作業が好きだし、向いている。何かを創り出したり、何かに肉付けしたりする事はあまり向いていないし、面白くない。

 


 だから建築の「間」が好きだし、一切無駄の無いものも好き。

 真理や原理というものを突き詰めてゆく作業も大好きだし、思考は常にそこに焦点が合っている。

  兵法も天地の大道宇宙の理を体現するものだから、やっていて楽しい。しかし、テクニカルな話ばかりになると飽きてくるけど。

 


 物理的にも心理的にも散らかったり物が増えるとイライラする。

 


 更にイライラしたり疲れたりすると余計なものを買ったり、余計な事を始めたりしてしまうので、そういう状態を常に内観しながら気をつけなければならない。

 


2018.6.17

 芳香剤や洗剤、石鹸やシャンプーなどがアレルギーや体調に少なからず影響を与えているそうだ。

 実家に住んでいた時と、一人暮らしをしていた時、結婚してから自分の身体に起こった変化を思い出そうとしている。ところで俺はいつから髪が薄くなってきたんだっけ?

 子育てが始まってからだと思うんだけど、やっぱり子育てによるストレスが原因なんだろうか?

 


2018.6.21

 如何なる時も周囲の人に安心感を与えることが大事なんだな。と、Instagramのプレゼン観てて思ったよ。

 


 ところで昨夜の剣術の稽古で尾張菅流槍術をやったんだけど、だんだんと面白くなった。

 


2018.6.23

 アルインコのエアロバイクが不要になり、石井スポーツが移転の為にSALEを行い、リビングにトランポリンが欲しくなり、車に不要になったエアロバイクと保温鍋と子どものおもちゃと刀掛けを積み込んでリサイクルショップへ行くも、フィットネスマシンは買い取らないとのこと、その後他のリサイクルショップを2軒回るも買い取ってもらえず、3軒目に問い合わせした所、中古市場ではフィットネス機器は取り扱わない事になったとの事。一軒目で教えて欲しかった。

 石井スポーツに行ってお手頃価格になっているものを物色に行ったものの、高いものは高く、肩透かしを食らって店を後にした。

 ゼビオスポーツへトランポリンを買いに行くも、種類が一つしかなく、しかもAmazonに並ぶトランポリンより遥かに値段が高い。

 結局その日はエアロバイクを車に積んで新潟市内をウロウロして終わってしまった。

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2018.6.24

 息子と兄親子と寺泊港へ豆アジを釣りに行った。全然釣れなかったけど一つわかったことは、釣りは「真空妙有」であるということ。

 真なる空は妙なる有である。

 結局他人が釣った魚を食べて帰りました。

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 2018.6.27

 近年に大きな地震が何度もきて、犠牲になった方々は多くの教訓を遺していってくれたのに、昨今の災害の避難訓練はやはり球体堅持のもので、実態に即していないところが多いと思う。東日本大地震であれだけの教訓を得たのにも関わらずだ。

 


2018.6.28

 

 ピアノ教室に通う娘を迎えに行って、俺の姿が見えて喜んで慌てて支度をする娘を見て、あぁこの一瞬はもう戻ってこないし、こんな時期は永遠に続かないと思うと、この一瞬一瞬は宝だなって思った。

 


2018.6.30

 最近istickでcbdリキッドを吸ってるんだけど、0.5ΩTiのコイルで20wから30wくらいで200度以上加熱しないように設定して吸ってるんだが、なかなか喉がイガイガする。

 W数落として、温度低めで吸えば大丈夫なんだけど、それだとcbdが気化する温度に達しないんだよね。どうすればいいんだろう?

https://www.instagram.com/p/BkpsLWEhvVL/

#istickpico21700 #premiumblack #cbd0.5ΩTiのコイル使ってるんだけど、ワッテージと温度設定が難しい。温度低いと喉はイガイガしないけど、cbdが気化する温度に届かないし…気化する温度まで加熱すると喉がイガイガするし…

 

卯月 皐月

徒然なるままに

2018.4.21

 新潟南イオンへ「クレヨンしんちゃん」の映画を観に行ってきた。

 正確には息子の映画鑑賞に付き合ってきた。

 


 いつも混雑していて車の停め場所もないくらいだけど、天気の良い日だったのでとても空いていた。

 みんな天気がいいからレジャーに出掛けているんだろう。こんなに天気がいいのに外で遊びに行かずに消費行動を取っていることに罪悪感というかもったいない感じがして、なんだかムズムズする。

 

2018.5.10


 2011年3月11日は東日本大震災によって日本中が精神的なダメージを負った。

 日本中で災害の恐ろしさや、生活が脅かされるのではないか?という不安感が蔓延した。

 計画停電や物不足も、被災地のみならず国民全体の生活に緊張感を与えた。

 そこから生まれたネガティブな感情は大きかった。

 防災意識の高まりや、ライフラインの大切さ、慌てて唱え始めた「絆」。心に不安を抱えている人ほど「絆」とか「繋がり」とか「連携」なんて事を口走っている様に見えた。

 


 震災の後しばらくは、不安や恐れから起因する動きが多かった。

 


 震災があった頃、魂が形作られる2歳前後の子ども達は、この社会的な負の感情の渦をもろに受けている。今この子らは10歳前後。

 この子らを俯瞰的に見ていると、何か他の年の子らと違うものを感じるのは私だけだろうか?

 

 

 

2018.5.13

 人生は長いっていうけど、それは、確固たる目標を持って、その為に今自分が何をするべきか分かっていて、真っ直ぐに向き合っているからなんだろうな。

 


 人生は短いっていうけど、それは、あらゆる問題から逃げて、手短な楽な方へと流れて、何となく毎日を過ごしているからなんだろうな。

 


40歳は不惑の年っていうけど、あれ本当だわ。

 


 今まで努力する事や、覚悟する事から逃げていた。逃げる事が当たり前になっていて、全ての問題は他者にあると知らず知らずのうちに心の内で決め付けていた。

 向き合わなければならない、問題に。立ち向かわなければならない、辛くとも。

 その先に本当の光明があると分かっていればこそ。

 逃げるな!一歩前へ!

2018.5.15

 自分の中の「恐れ」を受け入れる、或いは手放す事が人類にとっての大きなテーマだと思う。それはその道によって表現が異なる。自分の中の恐れが消化出来ればこそ、心にも身体にも「自在」を得ることが出来るのだと思う。

 


 所謂引き寄せの法則とかは先ず持って恐れを手放す必要があって、恐れから生ずるイメージは現実化しない。

 


2018.5.16

 新潟市の小学生殺害事件、娘を持つ親としては他人事とは思えない。

 小学校の登下校の対策についても限界がある。今までの対策以上のものを求めれば、教員の本来の仕事を圧迫して、学校の本分が損なわれる恐れがある。

 とはいえ、保護者や地域住民の協力も限界がすぐに訪れる。

 保護者は殆どが仕事をしているし、パトロールをしている地域住民を見れば殆どが高齢者である。無理強いはできない。

 


 ある程度まで見守る事はできても、その先は自分で自分を守らねばならないだろう。

 


 アップルウオッチをもう少し小さくしたような物で、付けていても生活の邪魔にならないような大きさで、セルラー付きで、GPSや心拍数計がついていて、突然の心拍数の上昇にはアップルウォッチの様にアラームが鳴って、しかも親のスマホにも通知が来て、時計を外した時にもGPSデータと共に通知が来て、「助けてっ!」って言うと110番に繋がる。そんな物を娘に着けさせたな。

 やっぱりApple Watchになるのか?

 


2018.5.20

 たまに薪ストーブの薪作りで薪割り機を貸してもらっているじいちゃんがいて、なかなかその薪割り機、もう40年以上昔のイタリアの古い薪割り機で、エンジンはROBINでつまり富士重工なんだけど、なかなか運転にコツがあって、素直にエンジンは動いてくれなくて、じいちゃんの助言を得ながらなんとかコツを会得して、この薪割り機を使いこなせるのはじいちゃんの俺だけになった。

 じいちゃんが「俺が死んだらこの薪割り機、あんたにくれてやる」って言ってて、ここしばらくは薪割り機の力を借りずに斧一本で頑張ってたもんだから、じいちゃんの様子を伺う事はなかったのだけど、先月一人暮らしの自宅で一人でお亡くなりになってたって先週聞いた。

 親戚やご近所さんの案内で行ってみると、もう薪割り機は誰かの手に渡ったそうでもう無かった。 

 でもまぁ、捨てられずに誰かの役に立っていればいいんだけど、ちゃんと動かされているんだろうか?

 まだ薪が沢山残っていて、このまま放置されるのも火災の心配などあるので処分したいとの事だったので引き受けることにした。

 あと、小屋の中には薪作りに使っていた道具などが沢山残っていて、これらも「形見分け」という事で使えるものは引き取って欲しいとのことだったので、使えるものがあったらいただいて行こうと思う。

 


 薪は雑木を集めたもので、小さな枝まで積んであって、枝はあまり必要なかったのだけど、綺麗に片付けるのも一つの供養かなって思って頑張ることにする。

 他の薪は建物を壊して出てきた建材を切ったもので、あまり薪ストーブユーザーは欲しがらないみたいだけど、これも片付けるって意味で引き取ろうと思う。

 

 俺が死んだら何が残るんだろう?俺の持ち物、誰が何を引き取ってくれるんだろう?

 


合掌

 


2018.5.26

 「死ね」とか「ぶっ殺す」などよく口にする子どもがいて、うちの息子に「あんな言葉使うな」って言った。

 「死ね」とかいう言葉は、相手に対して「お前は価値が無い」「お前はこの世に存在している意味が無い」「お前はいなくていい」と言っているのと同じ事だ。さ

 簡単にそんな言葉を口にすると、自分にとって少しだけ邪魔なだけだったり、自分にとってちょっとだけ嫌な事があるとすぐに「死ね」とか「殺す」とか言葉を使う癖がつく。

 人を無価値と断ずるのは、刃物でいとも簡単に他人を刺し殺したり、銃で撃ち殺す事と同じだ。

 逆に人を無価値と断じなければ人を殺せない。

 人を殺す事に対する気持ちのハードルが低くなる事になる。

 人は自分の身の回りの全てと繋がっていて、自分が在るのは身の回りの人や物事が在るからこそで、他者を殺すという事は、自分を傷つける事と同じ。人に与えたダメージは様々な形で自分に返ってくる。

 

 そして自分の周りには何もなくなってしまうだろう。

 


2018.5.28

 自分の人生を盛り上げるには、自分の周りの人の人生を盛り上げる事も必要だと感じた1日でありました。

 

 

 

 

 

 

 


 

自治会の問題

 育成会の副会長をやっていて、4月から育成会の会長をやることになって、先日自治会の評議員として評議会に出席してきました。

 

 まぁ兎に角色んな問題が沢山あるんだなって思いましたけれど、突き詰めると、自治会の為に活動されている方々の高年齢化で事業が立ち行かなくなってきているというのが一番の問題です。

 

 以前、何かの記事で(養老孟司さんが書かれたものかな?)「地縁」「職縁」という言葉を発見しました。

 高齢者(自治体を運営している多数)は地元の縁を大事にしている。その下のバブル時代を迎える世代は職場の縁を大事にしている。若い世代は地元の縁より職場の縁より、自分にとって価値のあるところに力を注ぐ。

 高齢者は自治会主催の旅行など出かけたりするし、地域での活動に積極的だ。で、団塊の世代で職場の縁を大事にする世代は、職場の旅行とかゴルフとか仕事仲間との時間を大事にしてる。若い世代は地元のゴミ拾いや環境整備には参加しないけど、ecoアクションとかチャリティマラソンとか全然地元と関係ないし仕事とも接点無いけど価値があると思えば参加する。

 

 地元の人材資源をどうやって地域の活動に誘導していくか?

 

 アドラー先生によれば、人間の幸福感は「共同体意識」にあるといい、「共同体意識」は「貢献感」から産み出されると言っていました。

 地域活動を通して貢献感と充実感を感じてもらい、地域活動に積極的に関わってもらうためにはどういう仕掛けが必要か?

 

 地域活動に参加する事が、面白くもなく、面倒くさく、自分の時間を犠牲にしていると感じるようなものであってはならないと思います。 

 地域活動が、意味があるのか無いのかわからないけど、今までずっとやってきているからという理由で、面倒だけどやっている…というものでは決してあってはなりません。

 地域活動が、「役に立ってる」「貢献している」そういう実感がなくてはならないと思うと同時に、地域活動が地域住民の役に立って、地域住民の暮らしの助けになっているものでなければなりません。

 

 先ずは

地域住民の皆さんに必要な活動は何か?

地域住民の皆さんが喜ぶ事って何だろうか?

その中で自治会ができる事って何か?

 

そこから始めようか…

コンビニで時空を越える

 日本全国津々浦々にコンビニが浸透して、これまでに色んな所でコンビニを利用するようになりましたね。

 私は16歳の時に、普通自動二輪の免許を取ってCBR250RRに乗って色んなところへ出かけました。

 田舎の高校生は電車と自転車と原付バイクでの移動が殆どで、その中で自動二輪という高速道路も乗れちゃう移動手段を手に入れるという事で、周りの高校生よりも遥かに行動範囲が広かったかと思います。

 

 他の高校生は行くコンビニは大体決まってると思うんです。自宅近く、学校の側、通学路沿い、駅近く、友達の家の近く…とかね。

 しかし、16歳からバイクで県内に留まらず色んなところを出かけてると、「行ったことのあるコンビニ」ってのは他の高校生より遥かに多いと思います。

 

 大人になってその差異は少なくなってるかと思いますが、兎に角今まで沢山のコンビニを利用しました。

 

 すると、コンビニに行くと、或いはコンビニに行った事を思い出すと、たまに全くちがう場所のコンビニにいるように思えたり、頭に浮かんだりする事があるんです。

 

 例えば、週末にアルツ磐梯スキー場に行って、その帰りに磐越自動車道磐梯東IC近くのローソンに行ったんですが、家に帰ってその事を思い出そうとしたら、何故か新発田のイオン近くにあるセブンイレブンの景色が浮かび上がったんです。まるでその日、新発田のセブンに行ったかのような感じがするんです。

 

 二つのコンビニは周りの景色も違うし、駐車場の様子も違うし、ローソンとセブンは店舗デザインもロゴも違うし、似てないんだけどイメージがリンクするんです。

 

 なんでだろ?

 

 その時に買ったものが同じなのか?

(しかしコンビニで買うものは大体似通っているので被る事は沢山ある)

 考えていた事、気持ちが同じだったのか?

 コンビニを利用する時の自分の意識が共通しているのか?

 

 コンビニとコンビニの間を時間と場所を越えて意識がワープするんですよね。

 だからコンビニにいたり、コンビニにいた事を思い出したりすると、全く違う、しかも完全に忘れていた過去のコンビニの記憶が蘇ったりするんですよね。

 

 「コンビニに行った」という事がただ記憶に残って、それがどこのコンビニかってところは重要じゃなくてあやふやになるのか?

 

 もしかしたらコンビニの端末機でタイムスリップか瞬間移動できたりして!

 私にとってはコンビニは時空を超越した場所の様です。

 

買い物に行って感じる景気

 これからしばらくは、思いついた事を小まめにブログに起こして行こうと思います。

 

 が、下調べとか裏付けがなされないので思い込みや間違った認識で物を言っているかもしれませんが悪しからず。

 

 で、最近思うのは、

 よくスーパーやホームセンターに買い物に行くんだけど、品質そこそこの安いものが増えて、ちょっとお高いけど良いものがなくなって来た。

 

 1月初旬まで酒を飲んでいたので(今は酒を辞めました)ツマミとか酒を買いにスーパーへ行くんだけど、以前は置いてあった高いけど美味しい生ハムやチーズがなくなったり、サントリーの美味しいソーダ水がなくなったり、美味しいけどちょっと高いコーヒ豆がなくなったり…

 まぁどれも無くて困るものじゃないんだけど、ここぞとばかりのお楽しみ趣向品がなくなって来た。

 その代わりにお味にこだわりのない安いお弁当や何が入ってるかは気にしない安い酎ハイとか、生鮮食品よりパッケージングされた商品が増えた気がする。

 

 つまり、

品質の良い割高なものが減り

品質の低い割安なものが増えた。

 

 ホームセンターも品質の低い安いものが増えた。

 

 日本は景気がよさそうに見えて、実はかなり悪くなっているのだと思う。

 株価は毎日政府が買い支えてなんとか持ってる。

 社会保険料も後5年くらいで大きな変化を余儀なくされるとか…

 金融緩和でダブついたお金は金融リテラシーのある人や資産家に集まってるが、庶民の暮らしは気がつかないうちにじわりじわりと生活レベルが低くなってる。

 

 これ、実感してる人とか危機感を持ってる人って周りもそうだけど少ないよね。

 

 日本は景気回復してるって信じてる。

 皆さんiPhoneてどうやって買ったの?キャリアに割賦で機種代金払って、色々な契約させられて、それってサブプライムローンみたいなもんじゃん。

 携帯買うのにそういう買い方に慣れて来ると、今度は車とか不動産をサブプライムみたいに買うようになるでしょう。

 

 話はずれたけど、

今後は、 今は品質が低く安い物が溢れてるけど、その品質も少しずつより低くなって、そしてオーガニック商品や生鮮食品などが高くて手が届きにくくなったり、アメリカの様に高所得者層向けのスーパーと低所得者向けスーパーがハッキリとすると思う。

 

 お金の稼ぎ方、お金の使い方、真剣に考えなきゃいけないと思う。

 然るべくしてそれは、これからのライフスタイルの事、よく考えなくちゃいけないと思うんだ。

volkswargen

 昨年11月頃に我がセカンドカーの軽トラが調子悪くて、走行が怪しくなってきました。

 前からマフラーが落ちかけてて、「ボボボー」とひどい音がするし、水温計は止まったまま、四駆も入らなくなり、キャブレターのせいだと思うけど、アイドリングが不安定で、回転数を高く維持していないとエンストするし、これはいよいよヤバイなと思った次第です。

 もともと中古で手に入れて、年式も古く、様々な不具合は覚悟していたものの、今回はちっと直すより買った方がよさげな感じがしたので、買い換えることにしました。

 

 薪ストーブユーザーとしては軽トラは必需品で無い訳にはいかんのです。それに荷物運べるし雪捨てに行けるし何かと便利なので無い訳にはいかんのです。

 

貯金を使いたく無いので、コスパの悪いアルファードを手放して、その売却益で、軽トラと、子ども達のお迎えができてスキーに行ける車を入手しようと画策しました。 ピックアップトラックも考えたけど、軽トラのフットワークと仕事に叶うものなし。

 

で、なんやかんやでvolkswagen  tiguan2008年式をゲットしました。

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 ワーゲンのボディ剛性は走ってて分かる。

 走行安定性も良くて、ガッチリどっしり感がよく伝わってくる。

 

今まで6台車を乗り継いできて、ずっとトヨタ車だったんだけど、全然別物みたい。

 もっと早くにドイツ車に出会ってたら、多分それ以降ドイツ車しか乗らなかったと思う。

 

 高速安定性もいいっ!

 

 高速走ってると、速度感覚が違う。

 「周りの車、ゆっくりだなぁ」って思ってたら、いつのまにか凄いスピードで走ってたって事が数回あった。

 よくドイツ車が高速をかっ飛ばしてるのを見かけるけど、もしかしたら飛ばしてる自覚が無いドライバーが多数いるのかも。

 

 さすがはアウトバーン走る事を想定しているだけのことはある。

 

 とにかく、フォルクスワーゲンは運転が楽しい!!

 バイクは「ツーリング行きたいなぁ」って事はあるけど、今まで車に関して「あてはないけど何か車運転したいなぁ。ドライブ行きたいなぁ」って思った事は今までなかったけど、ワーゲンは運転したくなるんだよね。何だろうね?

 あんまりドイツ車礼賛すると国産車乗ってる人に嫌味に聞こえるのでこの辺で…

 

 ところで軽トラがまだで、待ち遠しいところであります。

 

 軽トラはスバルサンバートラックが良いんだよね。ダイハツとのOEMより前の、スバルが作ってた頃のやつ。エンジンが後ろにマウントされてるやつが欲しいんだけど、いいのあるかな?

 

2018年の抱負

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

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 さて、自分と向き合い、昨年の新年の抱負には、いろんな物事をそぎ落として、大事な物事に力を注いでいく。というようなことを昨年に引き続きやっていくと言っていました。

 

 この「自分と向き合い、余計なものをそぎ落として、本当に大事な物事に力を注ぐ」ということは、なかなか簡単にいかないもので、毎年この目標を掲げつつもまだまだ足りないと感じる今日この頃であります。

 

 何かを始めるとか、何かを得るということよりも、断捨離の方が自分にとっては大事なことであるとは常々思っています。

 

 今年は細木数子先生の言う「大殺界」が終わった年になり、事始めの年になるかと思いますが、それでも引き続き自分と向き合いながら、もっともっとシンプルにしていきたいと思います。