真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

川崎市少年リンチ殺人事件

 悲惨な事件です。本人はどんなに苦しい日々を送り、恐ろしい思いをしたかと想像すると胸が痛くなります。

 被害者の母親の手記を読むと、その心痛が伝わります。

 少しずつ事件の細かな様子が詳らかになるにつれ、その残忍さと被害者の恐怖がありありとしてきます。

 世間はどうしてこの様な悲惨な事件が起こったのか?防ぐことは出来なかったのか?今後この様な事件を起こさないためには誰が何をすべきかなどが論じられています。

 建設的で有意義な議論がなされることを願います。

 
 この様な残忍極まる殺人は現行の少年法の範疇を超えているのではないか?少年法の改正が必要ではないか?との議論が高まっています。

少年法第1条にこうあります。
 この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする

 要するに少年を保護する法律ですが、保護されるべきと断罪すべきの境界ってどこなんでしょうか?年齢で区切っていいものなんでしょうか?

 凶悪な犯罪を犯した少年は断罪すべきとの世論が活発になっています。

 犯行が心身ともに未熟な故に 起こったものならば、少年法が適用されるべきですが、そんな事を言い始めたら世の中には幼稚な大人は沢山います。

 更正の余地があるならば大人であっても保護して事件について特別な措置があってもいいと思うし、少年であっても再犯の危険が拭えないとすれば実刑が必要かもしれません。

 人を裁くには司法プログラムでは裁く事ができないということでしょうか。

 人は人でしか裁く事ができないということでしょうか。


 それにしても、今回の事件の加害者に対する「私刑」は目に余るものがあります。

  加害者側への殺意にも似た憤怒や嫌がらせなどが見受けられます。

 確かに事件のニュースを観ていると、子を持つ親なら、我が身に重ねると怒髪天を突く勢いだと思いますし、被害者に心を寄せると涙が止まらなくなる気持ちは分かります。同時に加害者にに対する怒りの念は止めどなく溢れる気持ちもわかります。

 ですが、加害者宅にイタズラをしたり、誹謗中傷を行ったり、プライバシーを侵害したりするなどの行為は許されるものではありません。

 マスコミは加害者やその関係者を吊るし上げて、大衆に「そら思う存分石投げろ」と言っているようにしか見えません。

    こんなにも凄惨な事は人の命人の人生を無価値と断じなければ出来ないでしょう。加害者は犯行時、虫けらを殺す様に被害者の生命を奪ったでしょう。

     私は、加害者に対して「もっと苦しい思いをして死ね!」だの「加害者やその家族も一生苦しむべき!」だのイタズラだの、寄ってたかって精神的ストレスを与えるのはこの事件の加害者がしていた事と変わりない様に思えます。

    加害者の命を無価値と断じなければこんな社会による集団リンチはできないと思います。

    誰がいじめ役で誰がいじめられ役かはその時々によって変わるということです。

    そして独善的な正義感を振り回して、「いつでも正しい自分らが、目障りな奴を排除する」という構図は学校でもあらゆる組織でも地域のコミュニティーでもどこでも起こりうるのです。


    今回の事件は人間の色んな闇を浮き彫りにしていると思います。



スキーの効用



 幼少の頃からやっているスキーですが、子どもが生まれてから少し足が遠のいています。でも、今月は二週続けてスキーに行ってきました。

 最初は子どもを連れて出かけて、ジュニアのスクールに入れて自分だけ少し滑ってきました。2回目は子どもを家に残して自分だけスクールに入ってきました。

 やっぱり人に教えてもらうって効率がいいですね。2時間のレッスンでしたが、その間に教えてもらった事は、今後スキーの自主トレーニングをやる上でしばらく良いネタになります。

 自分の滑りに気を配りながら滑ってると、全身の神経と頭がフル回転で働いているのを実感します。
 脳は基本的にリアクションしか取れないそうですが、スキーをやっていると、次々と雪面状況や環境が変わる中、外から身体へかかる力が目まぐるしく変化して、それらを身体のあらゆる部分で感じ取って、頭を通して身体をコントロールするという、とても多くの情報を汲み取って処理する作業を行っています。
 しかも斜面を滑り降りているので、その作業は絶えず続きます。

 マラソンや競泳、モトクロスなど他にも同じ様な状況になる競技などがありますが、同じ様に頭と身体がフル回転になってると思います。

 こうした競技等は運動能力を効率良く高めると思います。
 この様な環境に浸かっていると、ゆっくりとした運動でも身体と頭は瞬時に感覚を捉えて修正をする事が出来ます剣術や太極拳をやっていてそう感じます。

 以前、このブログの中でも書いたのですが、
http://kentaros0113.hatenablog.com/entry/2014/02/04/120717
運動の中でもとりわけ大切なのは、理想と実態のズレを感知するセンサー(感覚)が大事なんだと思います。

 理想とのズレを感知さえ出来れば、練習によって修正する事が出来るわけです。
 このズレがわからないままだと、何を練習したらいいか分からないし、役に立たない練習を繰り返していることになったりするわけです。

 スポーツなどの練習の様子を見ていると、たまに反復練習信仰の様なものを垣間見ますが…ゴニョゴニョ……

 ズレを自覚するには自らの感覚に頼るか、第三者的目線で発見するかの方法があります。第三者的目線とは、機械を使ったり先生に見てもらったりしてズレを発見する方法の事です。

 人間の感覚は幼少期にしか鍛えることが出来ないので限界があります。その補完として第三者的目線が必要になってきます。

 したがって、自分一人で取り組むだけでなく、人に教えてもらったり動画を撮影したりする事でより高みに向かう事が出来ます。

 それにしても、やはり自分自身の感覚がベースになるわけですから、感覚を鍛えたり、研ぎ澄ます事は何よりも有効です。

 自分の感覚を研ぎ澄まして自分自身を感じ取るという体験は、幼少期に体験させることで、運動能力は格段に養えると思います。そして大人であっても、本来自分自身が持っている運動能力を余すことなく覚醒させると思います。

 人間には色んな感覚器官がありますが、運動のみならず日常のあらゆる場面において、自分の感覚を研ぎ澄まして物事にあたることで、自分の隠れた才能に気付くことがあるかもしれません。

 自分自身を内省的に突き詰めていくと、「ヨガ」や「禅」という話になるわけですが、その話はまた今度…


 というわけで、大自然の中で自分自身を俯瞰的に感じ取るスキーというものの中に「禅」的要素を感じたりして、改めて「スキー楽しい!」と思いました。

艱難辛苦を力に変える


 スポーツでもエンターテイメントでも研究者でも、あらゆる分野で長年努力し続ける人がいます。
 その道のりは決して平坦なものではなく、色んな障害やトラブルがあったり、時代の変化とともに価値がうしなわれ、やっている事が意味のないものになってしまったりしてしまう事もあります。強力なライバルが現れたり、後ろ盾が突然無くなったりすることもあります。
 そうした艱難辛苦を乗り越えながら一つの事を長年努力し続ける事を大変素晴らしく思いますし、尊敬します。

 何かをやっていると、ちょっとした事で投げ出したくなる時があります。一生懸命にやっている時に、横槍を入れられてやる気を無くしたり、調子が良く、自分が一番だと思っている時に自分よりも更に優れた部分を持つ人物が現れた時、やってる事が難しくなった時です。

 そんな時、「悔しい」と思えるか、「やーめたっ」となってしまうかが大きな分かれ道になります。

 「悔しい」って思える事はとても大事だと思います。出来ない自分に対して悔しいと思ったり、自分よりも優れた人や成果を目の当たりにして悔しいと思うのは、必ず次へのエネルギーになります。

 上に行きたければ、上を目指そうという気持ちに貪欲になるべきだと思います。

  逆に投げ出してしまうと時というのは、自分の身の程を分かっていないのだと思います。自分の弱さや程度をしっかりと直視すれば、自分に降りかかるトラブルやネガティブな出来事は当然の事として裁く事が出来ます。
 そしてもう一つ厄介なのは「嫉妬」です。
 自分と他者とを比べて自分の方が劣ってると感じると、「元々恵まれているからだ」等と他人の努力を認めたがらない人が居ます。その上粗探しをし始める人が居ます。
 そういった人は誹謗中傷することで、少しだけ自分が正義であると思えるし、自分の弱さから逃げ出すことができます。

 物事に取り組む上で、現状の自分と勇気を持って真っ向から向き合い受け入れる事と、自分の気持ちにしっかりと責任を持つ事は大事だと思います。
 それが成長と成功の道なのだと思います。

NGT48



 俺がもしもAKBの偉い人だったら、やはりネギっこがいる新潟を選んだな。何故ならネギっこはAKBにとって未知数の脅威になりうる位タフだから。

 ネギっこは10年位ずっと地道に活動してきたでしょ。何のネームバリューも無く地道に長年努力し続けてきた。色んな苦労もあったと思うけど、凄い事だと思うよ。

 「AKBグループにあらずんばアイドルにあらず」と言わんばかりの、日本中AKBの勢いの中で、こんなにもファンを惹きつけ活躍しているご当地アイドル「ネギっこ」は他のローカルアイドルのパイオニアと言える。
 AKBの中で同じ様に何もないところから、長年努力し続けたメンバーは初期メンバーしか居ないよね。今のメンバーの殆どは既にあるAKBブランドに乗っかった形でしょ。

 新潟に劇場を構える事はメンバー育成の観点から得るものは多いと思うよ。新潟県民のノリの悪さ、活動の足を引っ張る厳しい気候、その中で長年アイドルを続けてきて確固たる地位を築いたネギっこの強さ、アルビの様に一度盛り上がると凄まじいエネルギーを発するファン。そんな状況の中に飛び込むメンバーは、整えられた環境の中でスタートする事に比べたら、色んな力を身につけるんじゃないだろうか?
 今のAKBメンバーはメンバー同士でしのぎを削ってる。AKBの中で上に行く事がアイドルの上に行くということだから。しかし、初期メンバーはエンターテイメント市場の中で上に行こうと頑張っていた。
 アイドルの中でのトップを目指すアイドルではなくて、エンターテイメント市場の中でトップを目指す人材を育成する目的があるんじゃないかなぁ〜っと…
 東京から近い新潟はアイドルの修練場になるのではないかな?と思います。

 まぁ、アイドルを全く知らない私めが憶測でものを言うのであります。

東京って都会だべ



 先日里帰りから帰ってくる妻子を迎えに羽田空港まで行ってきました。その帰りに息子が行きたがっていた東京スカイツリーに行ってきました。

 東京へ行くことはあっても、東京駅と羽田空港にしか行かないので、見るもの全てが新鮮です。

 私の住んでいる場所は田舎なので、都内を移動していると、ものすごく生活のギャップを感じます。
 どこへ行っても人は多いし電車は休みなしに走っているのに乗客は多く、情報が氾濫しています。建物は隙間なく建っていて、しかも高く(世界的に見れば東京の建築物は低く密集率が低いそうですが)、その中にも人間が生活していると思うと「何でそんなに人間が集まってるんだ?」って思います。

 そんな所での生活は、私の住む田舎町とは全く違うものである事は容易に想像がつきます。
 インターネットによってあらゆるものが距離を越えて共有出来るようになりましたが、実物や空気感、空間的感覚等はやはりその場に行かないと感じる事は出来ません。
 色んな事を代わりにやってもらうことが出来ても、その感想は代わって感じてもらうことは出来ません。

 大げさでなく、同じ日本でありながら別の国みたいって思いました。
 生活スタイルは全然違うし、その都市が抱える問題は全然違います。今後も人口が増え続け、高効率が求められる都市と、人口が減り続け、社会が機能しなくなるのではないかという心配をしなければならない地方。
 教育、医療福祉、財政、経済、何もかも地方とは違う問題を抱えています。

 私は一刻も早く道州制を導入した方が良いと思います。その地域に即した行政を行うべきだし、東京都心と地方と同じ教育システム、同じ福祉など運営するには無理がある事は安易に想像できます。
 道州制が導入されて、地域の独自性が発揮できる様になると、それぞれの地域はより魅力を増すのではないでしょうか?
 文化の均一化よりも多様化の方が全体は豊かになると思います。

 それにしても東京は魅力的です。よく都心に住む人が、信州や那須に別荘を持ち、家庭菜園や薪ストーブなどを楽しんでおられますが、逆に私の場合は普段から薪ストーブを楽しみ、家庭菜園やガーデニングを楽しむ毎日です。私は東京都心にタワーマンションの別荘が欲しいと思います。
 歌舞伎や相撲、演劇やコンサートなどをゆっくりと楽しむための拠点にしたいと思います。

 そんな考えは行ってみなければ沸きません。そういう刺激を促す事が、「出かける」という事の意義ではないでしょうか?

 だから、どんどん出かけよう!そして、この目で見て肌で感じて考えよう!

・違う都市に行くと全然生活スタイルが違ってて面白い

・地域性は大事。政府は分割すべき、地域ごとの特色が必要。それが地域の魅力に繋がる。

・他の地域に出かけていって生を体感すべき。そこから新しい刺激を受けて新しい考えを養える。

独り暮らし

 今週は束の間の独身生活を楽しんでいました。

 妻と子ども二人が不在という機会はなかなかないので、貴重な時間でした。

 そもそも、実家に住みながら当時付き合っていた彼女のアパートに入り浸っていたり、実家を出て独り暮らしを始めた途端に彼女との半同棲生活をし、そのまま結婚して新婚生活が始まったので、本当に常に一人で寝食を過ごすって時間は、今までほとんどありませんでした。

一人で生活していると、

 仕事帰りにどこに寄り道しても時間を気にしなくて良いってのが凄い!

 何をいつ食べるか自由ってのが凄い!

 子どもをお風呂に入れたり寝かしつけたりしなくていい!

 物が散らからない。

 そして、色々と考える時間が沢山とれる。ごはん食べてる時や、ソファに座って寛いでいる時間。

 独身で独り暮らししてる人にとって当たり前なんだろうなぁ。

 時間を持て余して余計な事やどうでもいい事をしたりするのかな?って思ったけど、逆だった。
 自分自身に向き合う時間が取れるから、自己批判が出来るんだよね。だから自分にとってどうでもいい事が毎日少しずつそぎ落とされてゆく。
 そして、自分に役に立つ事や、自分に必要な事はなんだろうかって考える時間が増える。

一人の時間というのは内省検証するに必要な時間なんだなって思いました。


でもね…

今日の面白かった出来事を話す相手がいない。

自分を呼ぶ声がしない。

家に帰ってくると暗くて寒い。

子どもの声が聞こえない

自分がやっている事が、誰の為の事でもない。それは全然貢献感がなくて張り合いがない。

子どもの衣類を畳んでいるとさみしくなるね。

 3年前だったか、一人でHarleyで一泊ツーリングに出かけたことがあって、あの時間はとても良い時間でした。
 いろんな事を考えたり、いろんな事に前向きになれました。
 独りの時間はそんなもんでいいかも…

 今度はキャンプ道具を揃えてHarleyで長いキャンプツーリングの旅に出たいなぁ。
 妻の同意が得られればの話ですが…

独りってのは、たまにはいいものですね。たまには。

 兎にも角にも、そもそも人の生きてる理由や意味なんかなくて、自分が自分の人生に意味を持たせること、それこそが、人生なんだと思います。

 自分がもしもこの世に生まれてこなかったら…自分が居るのと居ないとでは何が違うか?その違いこそが自分の人生の意味なんじゃないでしょうか?
 物事を消費するより物事を創り出す方が楽しい。
自分の満足よりも、誰かのために貢献した方が満たされる。

 独りであろうが誰かと歩んでいようが関係なく、息を吐いて息を吸って生きて、この世に生を受けた因果に感謝しながら、この世に何かを残していけたら立派に人生を生きたって事だと思います。

今年の抱負

 あけましておめでとうございます。

 今年の私は細木数子先生によると、12年に一度訪れる、大殺界だそうです。
 何をやってもダメな年が3年続き、この3年の内に始めた事は全て後に悪影響を及ぼすそうです。

 なんと言うことでしょう!

 12年前の大殺界はどうだったか振り返ってみました。

 最初の年は、結婚しようと思っていた彼女に振られました。自分に足りない部分が多かったのが別れた理由ですが、その一件から今まで気付かなかった多くの事に気付きました。怪我の巧妙でそれから物事が一気に見えるようになりました。この秋、今の職場の採用試験に合格しました。

 その次の年は、今の仕事に採用されて、妻と出会いました。

その次の三年目はダラダラ、ユルユルと何にも考えずに、何も身に付かずに過ごしていたと思います。

 前回の大殺界は、痛みを伴う脱皮をし、人生が新たな展開を迎えた三年間でした。

 ということで、今年からは自らが積み重ねた物を改めて疑い、進んで壊していきたいと思います。

 今年の抱負は

・今まで積み重ねた自分の価値観を疑う事。
・好きなことを我慢しない。興味のある物にキチンと関心を示す。
・変化を恐れない

です。

2015年は人生のバージョンアップが始まる年になるかと思います。超楽しみ!