真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

広く開かれたサービスと思いきや、年寄り向けで残念という話

 平日の夕食は食材配達サービスを使っています。週5日間分の4人分の夕食、おかず2品で10,800円です。

 買い物に行かずに、仕事から真っ直ぐ家に帰ってすぐに夕食の支度ができるし、私の様に料理をしない人間にとって、レシピに沿って作れば料理ができるのもありがたいです。

 


 ただし不満もいくつかありまして、まず一つ目は、量が少ないという事ですね。我が家は食べ盛りの中学生がいるのですが、食材の量が少なくて息子にはとても物足りない思いをさせてしまう時があります。私にとっても「これはあまりにも質素だ」と思うこともあります。

 もう少し品数が多いプランもあるのですが、品数は増えても一品の量が少ないのには変わりないんですよね。例えば牛丼や豚肉を焼いたものは本当に肉が少なくてびっくりしますが、品数が増えてもそれは変化ありません。

 「少なく作って残さず食べる」は理想的ではありますし、健康的な量ではあるのですが、物足りない感じはありますね。

 人数を増やしたらどうかというと、それだと多すぎるんですよね。

 きっと分量は正しいけどとても若者には向かない量ですね。これは高齢者の量だと思います。

 


 ちゃんとお金を払うのでもう少し量多めのプランが欲しいところです。

 


 二つ目は作る時間を実は考えていないという事です。

 夕食のメニューを考えることが面倒、夕食の買い物に行くのが大変。料理が苦手でも作れる。というのが食材配達サービスの利点なんですが、たまにメニューによっては私の様な核家族共働き家庭を考えていない様なメニューがあるんですよね。

 この間はホッケだったのですが、レシピの一行目が「ホッケを解凍する」だったんですが、早く夕食作りたいのにそんな時間ないんですよね。ホッケは電子レンジが小さいので入りませんし、自然解凍や湯せんして解凍してる時間ないんですよね。

 たまにそういう解凍系があると、高齢者向けだなって感じるんですよ。高齢者は食材が配達されてすぐに開封して解凍できますからね。

 


 全体的に調理時間は短縮されてるし栄養価もバランスが取れていてとても優良なメニューだとは思うんですが、そういった節々に若者世帯より高齢者世帯の方を見ているなって思います。

 


 我が家は私より妻の方が仕事が忙しく、普段は家事一斎を私がワンオペでこなしてるんですけど、息子が2歳の頃からもっと家事代行などのサービスがあったらいいのになって思っています。

 夕方に洗濯物を干して畳むだけとか、朝出かけた後にキッチンの片付けと洗濯とか、あると助かるんですけど、そういったものが私が住んでる田舎にはないんですよね。もっと子育て世帯が使いやすい家事代行が

サービス展開しててもいいと思うんですけどね。その代わりホームヘルパーとか訪問介護は保険があるせいか充実してますよね。

 


本当に高齢者は社会から優遇されていて羨ましいですよ。

東京に雪が降って思う事

 東京方面に雪が降って高速道路が通行止めになったり交通インフラが大きな影響を受けています。また、普段雪が降らない地域なので知るに及ばぬところまで多くの影響が出ている事でしょう。お見舞い申し上げます。

 


 雪国に住んでいるものとして、普段雪が降らないのに積雪に見舞われると大変だろうとおっ察し申し上げます。

 


 しかし心の中でほくそ笑んでしまうところもあるのです。

 なぜかというと、

 


 雪国で大雪が降って交通麻痺が起きたり、道路やライフラインが寸断されて孤立したり、除雪作業中に怪我人や死人が出たりして大変な状況に陥っても多少ニュースに取り上げられるも、大した問題として取り上げられない。心配されていない感じがします。これは個人の感想になるわけですけども。

 「雪国は大変ですね」という一言で片付けられてしまっている様に思います。雪国に雪が降って当たり前なんですが、度が過ぎれば甚大な災害、雪害になるわけです。

 雪が降る地域に住んでいる事の報いを受ける事はいたしかたない。という感じを受けるわけです。

 ですが日本のどこに住んでいようとも行政サービスや福祉サービスを受けることができ、生活を営むことができる社会こそ、成熟した社会といえるのではないでしょうか。

 地方も社会活動を維持する必要性がある事をまずもって理解してほしいです。雪害がもたらす被害を詳らかにして問題意識を共有してほしいですね。

 


 要するに、雪国で災害級の大雪が降っても、その時だけニュースになるだけであまり心配されないので、関東で雪が降った折には多少なりとも雪が降った時の大変さを教訓として共有してもらえるのかな?と期待する次第です。

 


 第二に、もっと自然を受け入れろと。

 


せいぜい72時間ほどあれば跡形もなく消えて無くなる様な雪に大騒ぎしすぎだと苦笑してしまうのです。

 


 東京で降る雪などは先に書いた様にいつまでも残るものではありません。せいぜい72時間位で無くなるでしょう。それなのに無理やりノーマルタイヤで車を走らせようとしたり、通勤通学を押し通したり、平常時と同じ事を押し通そうとする様子に滑稽さを感じます。

 もちろん車椅子で移動する人やデイサービスを受けている人、盲目の人、大変な方々はおられると思います。そういった方々はこの話題に含めません。

 


 人は自然と共に暮らしている事を完全に忘れている様に思うのです。

 雪国に住んでいれば否が応でも雪という自然の影響を受けます。

 それは人の力ではどうしようもないものです。降った雪を出来うる限りなんとかするしか手が無いのです。

 北海道の寒さも桜島の降灰も海辺の塩害も同じと思いますが、自然を受け入れて暮らしていかなければなりません。いかに文明が進んでも自然の中で暮らしていることに変わりなく、自然に対して畏敬の念を忘れてはいけないのです。

 


 人はボタンを押せば反応があり、フリックしたりタップしたりすれば反応があり、その様に「こうすればこうなる」という状況に慣れすぎていると思います。世の中は自分が思った様にならないものが多いという事を忘れている様に思います。自然や他人や子どもはその最たるものです。大都市部に住んでいると忘れがちになるのでは無いでしょうか?

 明治神宮の再開発を見るに同様に感じます。既にある素晴らしく育てあげた森をわざわざ殺して不動産開発に都合のいい様に不自然な自然を演出する愚行に、自然に対する人間のわがままを感じます。人は自然を越える美しさを自然を模倣したもので生み出す事はできないと思います。生花も庭も美しさの要素を切り出したにすぎません。神宮の再開発は、桜の木を根本から伐採して部屋に桜の枝を生ける様なものです。

 


 自然がもたらした不便を受け入れる寛容さと、人の内にある自然性を大切にしなければならないと思います。

 


 今現在、能登半島地震で被災した方々は寒さの中、自然がもたらしたどうにもならない現実と向き合い、やるせない気持ちと何とか折り合いをつけようと努力して、少しでも前に進もうと日々過ごしておられる事でしょう。

 


 ちょっとの雪くらいグダグダ言うな。

新しい店ができて喜んでいる市民の皆様へ

 地元らしいコミュニティと一体となった様々なお祭りや行事、個性的な商店が無くなって、代わりにどこにでもあるイベントや店舗が乱立する街の様子を、市民の皆様はどう受け止めてるんですかね?


 地元で人気のあるスーパーの改装で、冷凍食品コーナーとお惣菜お弁当コーナーが大幅に増床された事と、ディスカウントショップが進出してきたことは、地方の平均所得がだいぶ落ちてきている事を意味します。合わせて生活レベルがかなり下がっている事を感じます。


 このまま「安くて便利」に身を委ねていいのでしょうか?


 各商店街で様々なイベントが行われる様になりましたが、どこも同じ様なイベントで、フードカーやダンスやライブを行ったりするのは全く同じです。それはぞれで楽しいのですが、もう少し独自性のあるものにした方がいいと思います。近隣の街でもやってるからと同じ様な事をやっても市外からわざわざ来る人はいないでしょう。同じ事を何度もやっては回数を重ねる毎に来場者は減ってゆくばかりでしょう。


 地域の文化や独自性を活かした事をやっていかなければ外から人は来ないし、同じ事を何度も繰り返す様な安売りしても飽きられるので、本当に素晴らしいものを生み出そうという気概を持たないとダメだと思います。


 この様な有り様を見ながら、私の住む街も文化的にも経済的にも痩せ細ってゆくのを感じます。

 じゃあ何が足りないのでしょうか?

 

 教養、品格、知識、アイデアが全然足りないです。


 それらを補うためにはアウトバウンドからのインバウンドが必要だと思います。

 この地域から積極的に外へ人を送り出し色んなものを吸収してもらい色んなものを持ち帰ってもらう。または、外から色んな人に来てもらい地域のために力を貸してもらう。そういったことが必要だと思うのです。


 教養と品格を備えた人からこの地域の文化や歴史を再検証してもらう事で、この地域の独自性と文化を継承しながら価値を見出していく事も必要だと思います。


この街に住む意味や価値を改めて見つめ直す時だと思います。

羽生君の罪

羽生君の罪

 羽生結弦君が離婚したとのニュースを観て心が痛みます。

 日々マスコミや熱烈なファンによる私生活への介入に悩まされていた事は勿論、奥さんや奥さんのご実家のご家族に迷惑が及んで心を痛めた事でしょう。

 


 有名人だからしょうがないという人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。有名人とて人権はあるわけですから、私生活への介入は遠慮するべきです。

 


 ただ、また別の側面から見ますと、このような事態を招いた原因に羽生君の自己のキャクター作りにもあったのではないかと思います。

 


 みなさんご存知の通り、羽生君はスケーターとしてアスリートとして素晴らしい選手であり表現者です。選手生活の中で、ファンに対するきめ細やかな気遣いや思いが会見やインタビューやパフォーマンスに表れていました。

 ファンを大事にする言動は好感が持てます。

 が、しかし、あのようなファンサービスは熱烈なファンを量産するばかりではなく、熱烈を超え行き過ぎたファンも増やす事になろうかと思います。

 ファンを増やす事は自分だけではなく、スケート界全体から見ても大きな収入源になるしスケートを盛り上げるために大事な事です。

 ただそのために一部熱烈が過ぎたファンを量産する事になるのですが、そのような方々は羽生君の私生活まで手を伸ばそうとしてきます。

 それが羽生君をとても困らせる事だと認識できないほど盲目になっていて、しかも自覚もありません。


 節度を守れないファンやマスコミが悪いという事は間違いないのですが、節度を守れなくなるほどお熱にさせた羽生君には罪はないのでしょうか?

 

 私はスケーターはアスリートである時はアスリートらしくあるべきだと考えます。ファンに媚を売ってスケートファンを増やそうという行いは、チケットやグッズを買ってくれるファンは増えるかと思いますが、本当にスケートファンでしょうか?アイドルでも歌手でもいいのではないでしょうか?

 競技や演技や私生活に悪影響を及ぼす様な過度なファンサービスは控えるべきだと思います。

 


 例えば、安藤美姫選手が、セクシーな際どいコスチュームを着て、男性ファンが喜びそうなコメントを言い、仕草や立ち居振る舞いもセクシーで、まるで清水あいりさんの様な感じで、安藤美姫選手お目当ての男性ファンが会場に大勢押しかけてきたらどう思います?ちょっと不快に思いませんか?でもって安藤さんにお子さんが出来て、お相手が誰かとか加熱報道やファンによる私生活への探索がなされたら、100%マスコミとファンの責任だと言いきれますかね。

 


 表現を伴うアスリートとしてファンを掴むのは大事な事ですし、スケート界全体を盛り上げるためのエンジン役割を担う矜持もわかりますが、ファンと自分とを取り巻く空間にどういった空気が醸成されていくのか、試行錯誤してコントロールしたりしながら自分というキャラクターを作り上げなければならないのだと思いました。

 

武芸の共通点と真髄

 武芸には色んな武芸、剣や居合、槍、杖術、柔、拳法など沢山あり、流派も数多くの流派が現存します。 稽古をしていると、他の武芸や流派の経験者の方は稽古の中で自分が今までやっていた事との共通点などを発見することがあります。その発見は大なり小なり感動があるわけです。

 その事を聞かせてもらうんですけど、実はあまり感動も関心も大きくありません。「へー」という感じなんです。

 


 それはなぜかというともっとその武芸の深淵に共通点が存在するという事を知っているからです。それがどのような点で共通しているかは分かりませんが、必ず深く追求すればするほど多くの共通点があり、もっと深く理解すれば一つになるのです。

 


 どんな武芸でもいいんですが、一つでもその武芸の真髄に近づけば、この事を理解できると思います。

 


 ただしどんなにたくさんの武芸に触れても表面的な部分でしか理解していなければ、理解する事はないでしょう。

 武芸の真理に近づけば、天地の道理、乾坤の徳に触れることができます。そこまで垣間見ることができると、武芸の技巧や習熟度や強い弱い、上手い下手など、何の武芸だとか何流だとか武芸か茶道かとかどうでも良くなってきます。

 


 よく「守破離」という言葉を聞きますが、この中の「離」とはこういうことなんだと解釈しています。

 


 最近は武芸の動画がたくさん上がっていますけど、しょうもないものを習わないように気をつけましょう。

 


 武芸者にとって最も幸せなのは、偉大な師匠に出会うことであり、素晴らしい後継者に出会うことであり、私はそういった意味で幸せだと、私の結婚式の挨拶で師匠から言われたものです。

本物の武芸兵法の終焉

 日本の武芸は、ただ相手を倒す為ではなく、仁愛を以って他者との調和を醸し出すものです。

 武芸をやる目的は護身の為でもなく、人より強くなる為でなく、自らの心と身体に自在を得る為です。

 

 兵法に上も下も上手下手もなく、勝った負けたもありません。

 

 YouTubeなどで武芸や兵法の動画を観ていると、(YouTubeに動画を上げている時点で視聴回数を上げたい、目立ちたいという思惑が根底にあるのでろくな人はいませんが)相手を打ちのめしたり、相手の手首を捻り上げてドヤ顔してる人とか、そんな低俗なものばかりで辟易します。武芸兵法とは名ばかりで格闘技になっています。

 格闘技はそれはそれで否定はしませんが、武芸とは全く別のものであると認識しなければなりません。武芸に格闘の要素を求めているのであれば、それは非常に勿体無い事であり、武芸への理解が非常にあさはかであると言わざるを得ません。

 

 我が国に古来より伝わる素晴らしい悟りを包含した武芸をただの格闘と同列化してその表面的な技術だけを追い求め、未熟者の解釈によって伝えられるのは、日本の武芸の素晴らしさを知る者の一人としては実に耐えられません。

 

 武芸は仁愛を以って他者との調和を醸し出しながら伝えて行ければ一番良いのですが、伝承を受け取る方に素養が備わっていなければ武芸そのものが毀損されかねないのです。

 

 そもそも何故こんなにも武芸、武道、兵法が世の中に広まり認知されるようになったにも関わらず、相手を倒す為であるとか、技術だけに走ったり、師匠を権威付けすることに勤しんだりする様な事が大半を占めるようになったのか?そしてそんな低俗なものに後付けで幼稚な精神論などを恥ずかしげもなく語るようになったのか?

 それはひとえに武芸をやる者に教養が無いの一言に尽きるのだと思います。

 ただ単に自尊心を保ちたい、承認欲求を満たしたい、人よりも何かしらで優位に立ちたい。そんなもののために日々武芸や武道を頑張っている人で溢れているわけです。そしてその努力の結果、人を捻り上げて弟子達にドヤ顔してみせる大先生の出来上がりで、弟子達は自らも人を捻り上げてドヤ顔したいから頑張って大先生のようになろうとするわけです。

 

 私は師匠から、またその師匠から遡ること何百年も伝えられてきた素晴らしい教えをその様な人達に踏みにじられることは耐えられないし、穢される事も看過出来ません。

 従って大変貴重で素晴らしい教えは、弘流する事無く、他者からの解釈を逃れて秘密にしておくことが最良なのではないかと考えておる昨今です。

 もしかしたら、同じ事を考えている人は他に多くいて、数多の兵法が「伝が絶えた」という形で蓋を閉めているのかもしれません。

4年前の加茂市

4年前の統一地方選挙の時に書いたブログですが、結局は前市長の言う通りに中学校の部活等は地域移行に動き出しました。書いてあるとおり、AI導入によって人員削減は加速し、労働力は安く買い叩かれ、市場もドル円アメリカ次第という状況下にあります。観光産業から不動産から外国資本がなだれ込み、英語力がなければ自らの資本の切り売りすら出来ない状況です。地方の衰退の速度とその手当の速度を比べると、もう少し危機感を持つべきだと思います。「それ見たことか」と言いたいですね。

https://kentaros0113.hatenablog.com/entry/2019/04/30/225441