真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

統一地方選挙

4月23日、統一地方選挙が行われて、全国で首長、議員の選挙が行われて各地の勢力図が更新されました。

 

 全体的に「無所属議員」の台頭が散見された選挙でしたが、無所属のはずなのに万歳三唱の後ろで見たことのある議員さんの姿があったり、壁に大物議員の為書きが貼ってあったりして、結局は無所属としながらも主要政党の威を借りて当選している人が多い様です。

 

 党派を表に出して戦えない事情が見え隠れします。党のイメージが自分のイメージと違い、相殺される事を避ける目論見があったり、特定の政党支持の色が濃い地域での選挙戦であったり、対立候補を倒すために対立する党が応援したりということもあるようですね。

 この様な支援の仕方を見ると、今後もこの様な「無所属だけど党の支援を受けている」という候補が沢山出て来るでしょう。

 さながら事務所に所属するyoutuberのようですね。表には出さないけど、大がかりな撮影をフォローしたり、企業案件を持ってきたり、ライブや物販をプロデュースしたりと影でyoutuberを支えているわけですが、同じ様に候補者に街宣車を貸したり運動員を用意したり演説会や選挙運動全般を支援し、その代わりにその政党の意向に沿った政策を支持し、その党の候補者の選挙支援をするという形。

 政党のお仕事は、新たに「選挙コーディネーター」としての役割を担うようになるのでしょうか?

 

 金融引き締めで世の中に還流するお金が少なくなってくると、今までスタートアップ企業等にジャブジャブと注ぎ込まれてきた資金も少なくなって来るかと思いますが、能力はあるのに仕事がなく、でもキャリアをレベルダウンしたくないという人が多くなってくるかと思います。そのような人は田舎では尚更仕事がないので、議員に立候補するという選択肢を選ぶ人がおられると思います。昨今の地方議会は定員割れを起こしているので、よっぽど変な人でなければ大体当選するかと思います。政党は少しでも政治家党員を増やすためにそのような人を支援するでしょう。立候補者の立候補の動機をよくよく聞きたいものですね。

 

 選挙が終わり蓋を開けてみたら、リベラルな事を言いながら自民党の言う事に従順だったり、地元の声を聞き民主的な政策を支持するとしながらも、地元民の意向を濁しながら、県連や県議会議員の意向通りに政策を進めたりするような事があちらこちらで起きているようです。

 

政党に対して支持不支持の意向を持っている投票者にはちょっと困りものですね。

 

 投票先を考える際は、無党派であっても、どこから支援を受けているかよく注意して見なければなりません。そして選挙で選んだ人がどのような活動をしているのかもよくチェックしなければならないでしょう。

 

家族

 夫婦が生活能力で結びつき、子育てや介護が仕事になってる。家族というものが形骸化してる気がする。

 男女が平等に家事や育児負担を行う考えについても、少しズレて解釈されているように感じます。家族に関わる仕事を平等に負担すべきとの考えから家事を平等に負担するという形に向かってるようですが、本来なら、夫婦同士が互いに関心を持ち、そして夫婦どちらも家族に対して関心を向ける事から家事負担の平等というものが生まれる筈なのだと思います。それなのに、慈愛も感情も無しに生活に関わるタスクを明確にして、生産性を最も重視する形で夫婦で分担するというようなことが、夫婦平等な家事分担であるとして重んじられていると見受けられます。勿論それを否定するわけではありませんが、根本的に家族とは家族同士の愛情から立脚しなければならないと考えています。

 

子育てに関して言えば、子育てに関するハウツーは子育て世帯にとっては、どのメディアでも必ず目にするはずです。膨大な子育て情報が巷には溢れていますよね。

 

子育ても家事も大変な仕事です。実際その中で色んな子育て情報を見聞きして得られた知見を我が家に落とし込もうとするのは何らおかしなことではありません。でも人間は一人一人違うじゃないですか。環境も生い立ちも体質も性格も違います。だから巷にあふれている子育てメゾットをそっくりそのまま自分の子育てに落とし込むことはできません。

 

 多くの情報から我が子に適した物を選りすぐる必要があるわけですが、その為には我が子の事をよく知らなければなりません。よく観察し話を聞き心の機微を捉えようと努力しなければなりません。つまり関心を寄せなければなりません。

 そういった意味でも、最初に関心を寄せ、愛情をもって接する事が大切だと思うわけです。

 

 介護についても同じことが言えるかもしれません。私は介護の経験がありませんので分かりませんが、介護が必要な身内がどうしたいのか?また、どういう人生の最後の時を望んでいるのか、関心を寄せなければ分かりません。

 

 家族に慈愛もなく関心を寄せることもなく過ごし、家族に危機が訪れたときに初めてその家族の事に関心を寄せ何とかしなければと思ったとき、自責の念と後悔にさいなまれるかもしれません。例えば家族の生死に関わる重大な決断を下す必要に迫られた時、決断が出来ないと思います。なぜならその家族の事を分からないから。

 

 結婚観や子育て介護、家族を取り巻く問題は様々ありますが、家族の愛に立脚しなければ、これらの問題は自分事として捉えられず、他人事の様に思えることでしょう。巷にあふれている他人の問題解決法や情報や成功体験を頼って決断すると、それはもう家族としての自分の決断ではありません。自分じゃなくても誰でもできる決断です。なぜならそれらの情報は自分とは関係のない人の話だからです。

 参考にはなると思いますが、それが全てではありません。

 

 大切なのは自分と家族との関係を愛することです。

 

 重く自戒を含めて思う今日この頃であります。

 

 国や社会は一人一人から成り立っています。人の最小集団単位である家族の在り方が、社会全般の様々な問題の根底にあると思います。

 

ウクライナをグチャグチャにした人達

 ウクライナ情勢が混迷していますね。この戦禍で沢山の市民が難民となって、死傷者が日々増えています。家を失った人や家族と生き別れた人のインタビューは心を締め付けられます。

 まずは戦闘が収束し、復興に向けて歩み出す日が来ることを祈るばかりです。

 それにしてもなぜこのような事態になってしまったのでしょう?

 

 日本は米国の属国なので米国の主張通りの報道しかされませんが、私はこの戦争の責任は米国合衆国とゼレンスキー大統領の責任に他ならないと思います。

 

 ウクライナは歴史を遡るととても複雑な経緯がありますが、近年は米国民主党内政干渉が著しく、表に裏に米国民主党の政治家や新保守層、いわゆるネオコンサバティブ、投資家であり政治活動家のジョージソロスの名前がチラホラ出てきます。

 

 2014年に起こったマイダン革命は、親ロシア路線を強固にしていた当時の政権を打倒する為にアメリカの手引きで市民運動が勃発し、政権を転覆する事態となりました。

 これは選挙で正当に選ばれた大統領を、暴力をもって引きずり下ろす実質的にクーデターでした。キエフの街は荒廃したそうです。

 親米政権になったウクライナは、閣僚も外国人で固められ、実質的に米国の傀儡政権へと陥落しました。

 

 ロシアに生活も文化も近しい東側の人々は、ロシア語を禁止されたり、ウクライナ国内のロシア人が殺害されたり、シェノサイドと言われてもおかしくない様な犯罪が横行しました。後にクリミア、ドネツク、ルガンスクは独立に向けて動き出すことになります。

 

 この当時ウクライナ内政干渉していた米国民主党議員らはトランプ大統領の登場で一時期ウクライナ情勢から姿を消すことになります。

 バイデン氏の次男のハンター·バイデン氏は2014年から16年までウクライナ天然ガス会社プリスマホールディングスの取締役を勤めていましたが様々な疑惑があり、当時の副大統領のバイデン父が強引にもみ消すなどして疑惑に疑惑を重ねました。これについて調査を指示したトランプ氏は内政干渉だと因縁をつけられました。

 

 後にジョーバイデン大統領の登場で内政干渉をしていた民主党の面々は息を吹き返します。

 

 ゼレンスキー大統領は元俳優で「国民の僕」という、教師がひょんな事から大統領になるというドラマで一躍人気者になり、そのまま「国民の僕」という政党を作って大統領に立候補します。選挙中は汚職反対、武力による問題解決反対、対話重視等々耳さわりの良い言葉を連ねて躍進しますが、政策に具体性がなく、理想論ばかりで反対派は懸念していました。

 懸念の通り、大統領になったあと、掲げていた理想は引っ込み、思うようには行かず、支持率は25%にまで落ち込みます。

 選挙戦から様々な面で方針転換し、公約違反ではないかという程酷い有り様で、ロシアと西側の間でバランスを取るような事を言いながら、実際は米国やNATO(西側の軍事同盟)加盟に舵を切っていきます。NATOに入るということは、ウクライナ国内に米軍基地が設けられ、モスクワの鼻先に米国のミサイルが突きつけられるということです。然るべくしてロシアとの関係は悪化の一途を辿り、この間ロシアは何してたかと言うとウクライナの親ロシア地域を養護し、NATO進出を食い止めるためにドネツク、ルガンスクに外交権を付与する働きかけをしていたのです。

 こうして大統領の資質もなく、リーダーシップもない人気俳優は米国や親米オルガルヒの傀儡となり、ウクライナをグチャグチャにして、挙げ句の果てにロシアに決して勝てない喧嘩を売りまくり、遂にはプーチン大統領をキレさせてウクライナを戦場にしてしまいました。

 日本は米国の属国ですから西側寄りの情報しか入ってきませんけど、ウクライナでは、ゼレンスキー大統領が刑務所に収監されている犯罪者や実質テロ組織であるアゾフ大隊にまで銃を配り、ロシアと戦えと言って野放しにした結果、犯罪者達は国内で略奪や強姦を繰り返し、国民はロシア兵より犯罪者から逃れるために避難しているという報道もあります。

 

また、WHOは

ウクライナ国内にある病原菌の研究施設から病原体を国外へ避難すべしと忠告を行ったにも関わらず、国連ではいつの間にかロシアが施設を狙っているというトンデモな嘘が重大な懸念事実として問題視されています。

 

 この様に一つであるはずの真実も二通りの真実になっています。

 

 スイスやフィンランド等、国提をひっくり返してまでウクライナに武器の供与を申し出たり、ロシアと親和性が高く、常に対話で問題を解決してきたドイツも補正予算で1000億ユーロもの軍事予算を積み増ししてウクライナ情勢に対応しすることになりました。世界がまたしても東西冷戦に逆戻りしているようです。

 

ここからは私の考えですが

 日々戦争被害者を出し続けるウクライナ情勢ですが、一刻も早く戦闘を終息させなければなりません。その為には武装を解除して、ゼレンスキー大統領が自ら退陣し、NATOへの不参加を表明し、ロシアとの停戦協定を話し合うべきです。米国の言うことに耳を貸してはいけません。国民の生命を第一に考えるべきです。日本が太平洋戦争で多くの死者を出したのは、今のゼレンスキー大統領のように義憤に訴え、戦いを止めなかったからです。日本とウクライナの決定的に違うところは、日本は武器も燃料も枯渇して戦争を継続することが決定的に不可能な状態に追い込まれたわけですが、ウクライナは湯水のように武器や物資が周辺国から供給され続けています。従ってまだまだ戦争を継続することが可能なわけです。

 

この戦争で誰が得してるかと言えば

2014年の政変から勃興している親米のオルガルヒと米国のネオコンウクライナの利権を吸い上げている米国民主党議員ではないでしょうか。今は荒廃しているウクライナですが、ウクライナ国内は世界の軍備品在庫大売り出し状態です。軍需産業で得している人は沢山いることでしょう。

 

 米国の狙いはプーチン大統領の失脚とロシアの弱体化。そして東欧のアメリカ化です。ウクライナはそのとばっちりを受けているわけです。

 

 資金と武器だけ支給され、死ぬまで戦い続けるウクライナ人は何のために戦うのでしょうか?国を守るために白旗を挙げることだって清廉で誇らしい国の守りかたの一つでもあると思います。

 

世界が二分される前に、ウクライナが第二のベルリンになる前に早くこの戦争が終わることを祈ります。

 

 

 

電熱ベスト買ってみた

 この一年でケトン体質に肉体改造すべく、食事に気をつけ、ランニングを始めて数ヶ月で10キロの減量を成功し、今は食べても体重が変わらないようになりました。

 しかし、ミートテックが削ぎ落とされてから寒さにめっぽう弱くなりまして、今まで平気だった寒さも身体に厳しく感じられてきました。

 

 で、最近よく目にする電熱ベストなるものを検討してみました。

 ネットでは沢山紹介されていてどんなものを買ったらいいか良く分からなかったです。

 Amazonのレビューを見ると玉石混淆で、すぐに壊れるようなものもあれば、暖かくない物もあったり、様々でした。

 

 あと悩んだのは、本当に電熱ベストは必要か?という事でした。

 

 他の選択肢として、mont-bellのインナーダウンやスーパーメリノウール(厚手)を買い増しした方がいいのでは?と思ったからです。

 電熱ベストの使い道は普段仕事で寒い場所で着る事と、スキーやバイクに乗る時に使う事を想定しています。一番電熱ベストに期待する場面はバイクですね。

バイクに乗るときはオーダーメイドの革ジャンの下に保温機能の高いものを着ているのですが、革ジャンはオーダーメイド故に身体にピッタリなので、あまり下に着込むことが出来ないのです。最小限の重ね着で高い保温性を確保しなければなりません。それ故に電熱ベストに期待しておるわけです。

 

 スキーに行く時はウェアの下にフリースを着ているのですが、あまり着込むと動きにくいんですよね。フリース無しで電熱ベストを導入しようと考えました。

 

 バイクに関しては、そんなに寒い中無理して乗らなくても暖かくなってから乗ればいいじゃんという考えと、スキーに関してはmont-bellのインナーダウンかメリノウール買い増しして着込めばいいじゃん?使いまわし出来るし。という考えもあり、購入に踏み切れず悩んでいました。

 

 しかしながら、これは使ってみないと分からないのでとりあえず買ってみようと思いました。

 

 電熱ベストはバッテリー付きの物はバッテリー分割高になっています。あと有名ブランドから出ているものは高いですね。何が高いのか分かりません。

 

 悩んだ末に購入したのがこちらです

 

 

 

商品が到着して早速着てみました。

問題は着こなし方です。普段はフリースや少しダブついたトレーナー、セーター等を着て、外へ出るときはノースフェイスの薄手のウィンドブレーカーを着ています。

 フリースの上にベストを着ると、ベスト自体に厚みがあるので着ぶくれするんです。そう思ってフリース無しで電熱ベスト着るとやはり腕が寒いですね。多少の着ぶくれは妥協することにしました。

  パーカーやジャストサイズのトレーナー辺りだと丁度いいかもです。

 バッテリーは左の内ポケットに入るのですが、付属の30000mAのバッテリーはでかくて重いので着ぶくれの上に更に出っ張ります。なのでアンカーの10000mAのバッテリーを付けています。それでもまだ大きいと感じますけど…

 

 購入してから10日程使用しました。

 

 主に仕事中に使用しました。外気温-0.5℃前後の外であまり身体を動かさない場面ではかなり暖かいです。この時フリースの上にベスト、その上にウィンドブレーカーを着ていました。

 やはり防風の上着無しで外は寒いですね。特に腕が。

 気温が3℃以上だとベストの電源を入れなくても暖かいと感じます。電源を付けたり消したりで調節するといいと思います。

 

 何日か使う内に今は3段階の温度調節の内、1番低い設定で1日過ごしています。前側にも電熱があるのですが、暖かいので背面しか使っていません。私の場合はそれで十分です。バッテリーの持ちは、10000mAのバッテリーで一番低い設定で6:30~16:00までもちました。

 

 さて今度はスキーでどれだけ活躍してくれるか、楽しみです。バイクは春先かな?

 

つづく

 

素晴らしき校歌

 学校の校歌って学校の数だけあると思いますが、その歌詞を読むと素晴らしいものが沢山ありますよね。学校の成り立ちやその地域の特色を盛り込んだものから、最近のシンガーソングライターが作詞作曲したポップなものまで様々ですね。

 

 最近、加茂市加茂中学校の校歌の詩を読んだんですけど、素晴らしい詩でした。

 

 

http://www.ginzado.ne.jp/~kamojh0262/schoolsongs1.pdf

 一、自然の運行(うごき)君見ずや

無為自然のうつろい(調和の復元作用)を見てみよという事。」

   自由ながらに規律あり

「自由なようであるが自然の摂理、天地の大道、宇宙の法則に従っているという意。それは人間も例外ではない。」

   私欲なければ平らかに

「自然の動きを私欲やエゴで曲げようとすれば無理が生じる。自然の動きは平然と行われて、自然に逆らわず自然の動きに従えばその恩恵を味方に付ける事ができるという意。」

   花開きつつ紅葉つつ

「自然の中で生と死は永遠に繰り返されていく。」

   四六時中を明け暮れて

「その自然の流れは絶え間なく続いている」

   疲れを知らず天地の

   大き姿を見よや君

「疲れも知らず止まる事のないその大いなる自然の姿を見よ」

 

 二、月を流せる加茂川の

   清き心を心にて

「月と水といえば「水月」、水面に映る月を表していて、本来なら静かな水面が月をあるがままに映すように、心も静かな水面のようであればあるがままを心に映す事ができるが、水面が波打てば月はその姿をそのまま映す事ができない。同様に心も乱れればあるがままを正しく心に映す事ができない。川は絶えず波打ってるので、月をあるがままに水面に映すことはないのだけれど、きっと校歌なので地元の加茂川を取り入れたかったのだと思う。

 物事をあるがままに偏見なく捉える、清い心を持つべしという意。」

   名も青海のいや深く

「青海、加茂の人間としてのアイデンティティを深く自覚せよ。(深くは海に掛けているのだと思う)生まれ育ったこの地、人への感謝。」

   知行を磨き身を鍛え

「勉強し身体を鍛えよ。」

   自然を友に高々と

   民主の旗をおし立つる

「一番にある大いなる自然の力を友として、民主的な言動を示せ。(昭和23年に制定されたので時代を反映してるのだと思う)」

   我等ぞ加茂の中学生

 

 歌詞の一番は、青少年として、身の回りのあるがままの自然の大いなる力を感じよという意趣で、二番は中学生としての心構を説いた歌詞であると思います。

 

 素晴らしい詩ですね。あくまで私個人の見解です。

 

 母校の校歌も、子どもの頃には分からなかった事が、大人になってから読み返すと素晴らしさが理解できるかもしれませんね。

 

 

  

シュレッダーのゴミが捨てにくいわけ

 シュレッダーってゴミを捨てるの大変じゃないですか?私がゴミを捨てているとよく他の人に「シュレッダーって何でこんなにゴミが散らかるし捨てるの大変なんですかね?」って聞かれるんですけど、きっとそれはシュレッダーを使う人買う人とゴミを捨てる人がそれぞれ違う人だからだと思うのです。使う人はとにかくストレスなく使えるシュレッダーが欲しいわけです。スピードがあり、何十枚も重ねておいてもオートで入れられて、詰まらない物がいいと思うんです。買う人は使う人の意見と事業所の実態に合わせた性能や大きさと予算のバランスを考えて機種を決めると思うんです。シュレッダーを買うに当たって、そこにゴミを捨てる人の意見はなかなか反映しれないんですよ。なぜかというと、ある程度の大きさの事業所になるとゴミを捨てる人はビル管理会社から来ている人だったり、管理員だったりと他の組織の人だったりするからです。
 そこがシュレッダーは何故ゴミが散らかり捨てにくいのか?の答えとなるわけです。

 家庭用掃除機は違いますよね。
 家庭用掃除機は買う人と使う人と捨てる人は同じですからね。

 でもそれでいいと思うんですよね。何故かというと使う人と買う人は仕事の生産性を重視しているからです。生産性が高まる選択をしているので問題ないわけです。ゴミを捨てるという仕事はその生産性を支える仕事なので、ゴミの捨てやすさを期待せずに作業の生産性を検討する必要があります。

 シュレッダーだけにあらずいろんな組織にも言える事ですが、より高い価値を生み出そうとしている仕事を最優先すべきで、自分がそこにどう関わっているのかよく自覚しなければなりません。

 皆さんのその仕事は一体どういう価値を生み出していますか?

アイデンティティー(自分とは何者か?)

 最近何冊か本を読んでいる中で「アイデンティティー」と言う言葉が何度かクローズアップされていました。

 自分のアイデンティティーってあまり考えたことが無かったように思います。

 自分が何者かって人に説明する時、何と説明しますか?

 「私は医者です」とか「経営者です」とか「常に自由を愛する人です」とか「主婦です」とか「YouTuberです」とか…

 

 自分を語るにアイデンティティは一つではないと思いますが、人それぞれですよね。

 

 アイデンティティは習慣を形作ると言われています。そう言われると確かに覚えがありますね。自分は父親だって言い続ければ言動も父親らしくなってると思いますよ。子どもの事を気にかけたり、進んで家事をこなしたり。或いは私は〜の一員だって思えばそれらしい立居振る舞いになったりするもんですよね。

 

 また逆に習慣がアイデンティティを形成してゆくってパターンもありますね。そしてその習慣が人に褒められればそれが自信に繋がり、誇りに思い、自尊心が育つという様なことになります。

 例えば、なんとなく始めたバイトだけど、沢山のお客さんから感謝されて、いつの間にか自分の生涯の仕事になっちゃったとか。

 

 普段の生活の中で自分に欠落してる部分てアイデンティティが欠落してるんじゃないかな?って思います。例えば私は夫ですってアイデンティティが欠如してると、あんまり奥さん大事にしてなさそうですよね。

 

 ただし、人生の節目節目でアイデンティティ固執して変わらないでいるとおかしなことになります。結婚して夫になったのに、未だに「私は自由でやりたい事をやり、行きたいところに行く人間だ」みたいなアイデンティティしか持ってないと、結婚したのに全然夫らしくなく、子育てに無関心だったり。「私は親だ。この子の成長の為なら骨身を惜しまず努力できる親だ」というアイデンティティを持てたらたちまち親らしくなるけど、子どもが皆独立したのに先ほどの様な親としてのアイデンティティにぶら下がり続けて、子どもが独立していなくなって心にポッカリと穴が空いたみたいになっちゃって、何して良いかわからない虚な人になっちゃったり。

 

 自分がどんな人間になりたいかって節目節目にはっきりさせる事でその時の自分に合ったアイデンティティの確立になり、アイデンティティが行動の変化につながるわけですね。

 

 中村天風先生が、「命令暗示法」なるものを説いていて、毎晩寝る前に鏡に向かい、例えば「お前は集中力が身に付く!」と言って、朝起きた時にまた鏡に向かい「お前は集中力が身に付いた!」という様な事をするものなんですけど、これ続けると2〜3日で変化が訪れたりするらしいですよ。これもまた自分のアイデンティティをはっきりさせて、自然に日常の習慣に変化を促す事かと思います。

 

 強い信念でそのアイデンティティを持つ事ができたら、きっと少しずつ習慣が変わり、人生もそれなりのものになってゆくのではないでしょうか?

 

 しかしながら、そう言った自己定義は固定観念になり、不自由さの原因になりかねません。

 だからこう言う事にしたほうがいいかもしれません。

 私は父親でもあるし、私は夫でもある。の様に…

 

・自分が何者か、アイデンティティをハッキリとする事で自分の習慣に良い変化をもたらす。

 

・自分が何になりたいかハッキリさせる事で自分がなりたい人間になる為の習慣が自然と身につく。

 

・柔軟に自分のアイデンティティを見直す事で人生の節目に新たな展望が開かれる。

 

・自分に対して強い暗示をかける事でアイデンティティが強化され、習慣も強化される。

 

 

人はなりたい者になれるし、未来だって自分で決められる。