真実と善と美

 日常の中で、見たり聞いたりした事について書いています。

家族

 夫婦が生活能力で結びつき、子育てや介護が仕事になってる。家族というものが形骸化してる気がする。

 男女が平等に家事や育児負担を行う考えについても、少しズレて解釈されているように感じます。家族に関わる仕事を平等に負担すべきとの考えから家事を平等に負担するという形に向かってるようですが、本来なら、夫婦同士が互いに関心を持ち、そして夫婦どちらも家族に対して関心を向ける事から家事負担の平等というものが生まれる筈なのだと思います。それなのに、慈愛も感情も無しに生活に関わるタスクを明確にして、生産性を最も重視する形で夫婦で分担するというようなことが、夫婦平等な家事分担であるとして重んじられていると見受けられます。勿論それを否定するわけではありませんが、根本的に家族とは家族同士の愛情から立脚しなければならないと考えています。

 

子育てに関して言えば、子育てに関するハウツーは子育て世帯にとっては、どのメディアでも必ず目にするはずです。膨大な子育て情報が巷には溢れていますよね。

 

子育ても家事も大変な仕事です。実際その中で色んな子育て情報を見聞きして得られた知見を我が家に落とし込もうとするのは何らおかしなことではありません。でも人間は一人一人違うじゃないですか。環境も生い立ちも体質も性格も違います。だから巷にあふれている子育てメゾットをそっくりそのまま自分の子育てに落とし込むことはできません。

 

 多くの情報から我が子に適した物を選りすぐる必要があるわけですが、その為には我が子の事をよく知らなければなりません。よく観察し話を聞き心の機微を捉えようと努力しなければなりません。つまり関心を寄せなければなりません。

 そういった意味でも、最初に関心を寄せ、愛情をもって接する事が大切だと思うわけです。

 

 介護についても同じことが言えるかもしれません。私は介護の経験がありませんので分かりませんが、介護が必要な身内がどうしたいのか?また、どういう人生の最後の時を望んでいるのか、関心を寄せなければ分かりません。

 

 家族に慈愛もなく関心を寄せることもなく過ごし、家族に危機が訪れたときに初めてその家族の事に関心を寄せ何とかしなければと思ったとき、自責の念と後悔にさいなまれるかもしれません。例えば家族の生死に関わる重大な決断を下す必要に迫られた時、決断が出来ないと思います。なぜならその家族の事を分からないから。

 

 結婚観や子育て介護、家族を取り巻く問題は様々ありますが、家族の愛に立脚しなければ、これらの問題は自分事として捉えられず、他人事の様に思えることでしょう。巷にあふれている他人の問題解決法や情報や成功体験を頼って決断すると、それはもう家族としての自分の決断ではありません。自分じゃなくても誰でもできる決断です。なぜならそれらの情報は自分とは関係のない人の話だからです。

 参考にはなると思いますが、それが全てではありません。

 

 大切なのは自分と家族との関係を愛することです。

 

 重く自戒を含めて思う今日この頃であります。

 

 国や社会は一人一人から成り立っています。人の最小集団単位である家族の在り方が、社会全般の様々な問題の根底にあると思います。